よこはま物語その25
太田なわのれん
今回は横浜が誇る名物料理「牛鍋」をご紹介いたします。
1859年横浜港が開港し、西洋の食文化、肉食文化が流入して、牛鍋の歴史が幕を開けました。
外交上、政府が牛肉奨励を推し進める中、明治5年に天皇が初めて牛肉を召し上がられ、一気にブームとなり、その後高級料理店で牛肉が扱われるようになりました。
そして徐々に一般の人々にも牛肉への憧れが広まっていき、劇場や遊郭が建ち並ぶ横浜一の歓楽街である伊勢佐木町にも、後に横浜の牛鍋屋御三家と呼ばれるお店ができました。
「太田なわのれん」「じゃのめや」「荒井屋」の3店です。
その中で最も古い歴史をもつ「太田なわのれん」からご紹介いたします。
太田なわのれんは、明治元年に高橋音吉という人が、今と同じ場所の中区末吉町1丁目に開いてから156年以上の歴史をもつお店です。
ここの牛鍋は独特です。まずお肉はぶつ切りです。その理由は、お店を開く前に牛肉の串焼きを屋台で売っていたのと、初代音吉氏は大酒のみで、朝からほろ酔いで肉を調理するから、薄く切るのが面倒なため、ぶつ切りになったそうです。それがかえって評判を呼び、今も頑なにぶつ切り一筋です。
太田なわのれんの牛鍋
そしてもう一つ独特なところは、味噌をタレにして牛肉を煮ることです。
これは、初代音吉氏が牡丹鍋(山猪鍋)にヒントを得て、考案したそうです。
味噌だれで肉を煮て、その風味とネギで肉の臭みを消し、炭火の七輪にかけた浅い鉄鍋の火回しでうまく工夫するものです。
ここは仲居さんが最後まで調理してくれます
牛鍋の出来上がり!
戦中、鉄製のものはすべて軍に没収されてしまうので、鉄鍋は地中深くに埋めて保管していたそうです。
今でも戦前からの鉄鍋を使っていると仲居さんが説明してくれました。
入口の縄のれんがこのお店のシンボルです
太田なわのれんの「太田」は明治の頃に一時移転した場所(赤門付近)の名前ですが、「縄のれん」は、明治初期、蠅が店内に入らないようにする唯一の方法だったらしく、太田にある縄のれんが掛かっているお店がそのまま店名になったというわけです。
戦中・戦後初期に日本の漫画界をリードした横山隆一氏の代表作「フクちゃん」がお店のキャラクターです
伊勢佐木町通り側からのじゃのめや
戦前のじゃのめや
じゃのめやの宴会専用入口
次にご紹介するのが「じゃのめや」です。
このお店は、明治26年、今と同じ場所 中区伊勢佐木町5丁目に、山崎繁太郎氏が開きました。
「蛇の目の傘が置いてあるお店」が店名の由来だそうです。
牛鍋が流行りだした頃、繁太郎氏は父の彦三郎氏と共に千葉から横浜に出てきて、庶民の人にも牛鍋を食べてもらいたいと、屋台の牛鍋屋を始めました。
そしてお店を開業してから130年以上、衰退してしまった伊勢佐木町通りで、5代目オーナー山崎謙吉氏が伝統ある歴史と味を今も守り抜いています。
現在の荒井屋本店
改築前の荒井屋本店
荒井屋本店の宴会専用入口
3番目にご紹介するのが「荒井屋」です。
このお店は、明治28年、今と同じ中区曙町2丁目に、荒井庄兵衛氏が開きました。
こちらも130年近く、親不孝通りというイメージの良くない場所ですが、4代目女将の荒井順子氏が伝統ある歴史と味を守り抜いています。
突然ですが、すき焼きと牛鍋の違いについて。
すき焼きは関西発祥で、最初に肉を焼いてから割下を入れますが、牛鍋は関東発祥で、肉を焼かず最初から割下を入れて煮る感じです。
後の調理は同じで、具材も変わりません。
牛鍋は最初から割下を入れます
最後に美味しそうな、じゃのめやと荒井屋の牛鍋をご紹介いたします。
じゃのめやの牛鍋 ざくに玉ねぎが入るのが特徴
荒井屋の牛鍋
どちらのお店も仲居さんが最初だけ調理してくれるのが醍醐味です。
最初に割下を入れ、まずはざく(野菜をザクザク切るので)の玉ねぎ(じゃのめやだけ)、ネギ、豆腐、シイタケ、白滝、春菊を少しずつ入れ、牛肉を数枚。よい具合に肉に火が通ったところを見極め、仲居さんが溶いてくれた卵の器に入れてくれます。
すき焼きと違い、肉を焼いていないので、牛鍋ならではのふわっと柔らかな感じが楽しめます。
残りの肉と野菜は自分で調理。締めはうどんかきしめんで・・・これも仲居さんが調理してくれます。
どうです、よだれが垂れてきませんか!