よこはま物語 その21
曙町二丁目北交差点のファッションヘルスビル
曙町裏の通称「親不孝通り」にあるファッションヘルス「蛍」と「ハマヘル同好会」
鎌倉街道と呼ばれる国道16号線沿いの中区曙町は明治から昭和の初めまで、銘酒を売る看板を出して飲み屋を装い、密かに私娼(役所・警察に許可も得ず、もぐりで商売をしている娼婦)を抱えて売春を営む店が建ち並ぶ「銘酒屋街」として、永楽町・真金町の「永真遊郭街」(こちらは役所・警察公認の売春婦である公娼の街)と共に栄えました。
第二次大戦で焼野原になった後も、曙町のお店はカフェーやバーを装い、青線街(特殊飲食店の営業許可なしに、非合法で売春が行われていた地域)として栄えました。
因みに、1946年GHQにより日本の公娼制度は廃止されましたが、それ以降も特殊飲食店街として公認で売春が行われていた地域が赤線地帯で、警察が地図に赤線で囲んで表示していたそうです。
青線地帯は青線で囲んでいたので、赤線青線と呼ばれるようになりました。
1956年に発令された売春防止法により、1958年赤線は廃止されましたが、元々もぐりで商売をしていた曙町の風俗店はしぶとく生き残り、1993年あたりからいきなり日本最大級のファッションヘルス街になったのです!
1987年神戸のソープランドで働いていた女性が、日本で初めて性行為によるHIV感染でエイズを発症し、死亡したこともあり、ソープよりも本番行為以外の性的サービスを行うヘルスの方にお客が流れるようになりました。
何故1993年になって曙町にヘルスが林立し始めたかと言うと、中区では学校や入院施設のある病院が周囲200m以内にあると風俗店は出せないという条例があるのですが、曙町一丁目にあった山口病院が、暴力団幹部らのグループによる追突事故を装った保険金詐欺事件に協力していたので、1993年に営業停止になり、その後なくなってしまったのです。
もぐりの風俗関係店がほとんどだった曙町ですから、この時とばかりに、合法で出店できて資金もあまりかからないヘルスを挙って始めたわけです。
そんないかがわしい曙町で今年60周年を迎えたのが、パブレストラン「アポロ」です!
マスターの石原清司さんが26歳の時1964年10月1日に開業しました。
国際港横浜には多くの外国貨物船が入港し、船員たちの滞在期間も1ヶ月近くありました。
1950年代からギリシャの貨物船も増えてきて、曙町あたりはギリシャ人の船乗りがたくさん集まるようになり、ギリシャタウンになりました(中華街あたりはアメリカ人の街になっていたので)。
ギリシャ料理のお店やバーが30~40軒ほどでき、アポロの建物の1階には「スパルタ」というギリシャレストランが1953年にオープンしました。
そのお店で石原さんは19歳の時からウエイターとして4年ほど働き、一時別の仕事をしていましたが、オーナーのエリヤス・スカンゾフさんから、2階でお店をやらないかと誘われ、決断したそうです。
オープン当初はギリシャ人ばかりだったので、看板もギリシャ語だったのですが、70年代になるとギリシャの船は減ってきて段々ギリシャ人は来なくなりました。その代わり日本のお客さんが増えてきたので、看板を日本語に変えました。最初の看板は「スナックアポロ」で今も付いています。
因みに1階は現在ヘルスになっています。
マスターの石原さんにはきつい急な階段
アポロの店内
アポロのジュークボックス
前回の「山荘」と同じドーナツ盤レコードのジュークボックスです。こっちは100円で3曲です。
超お薦めのチーズピザ
超お薦めのナポリタン
アポロは日本ナポリタン学会認定店になりました!
太陽のようなカクテル「アポロ」
マスターの石原さんが心配なので、週何回か奥様とお嬢様も手伝いに来ています。
今も笑顔が素敵な石原清司さん 通称チャンさん
マスターの石原清司さんは御年86歳。
お店のマスターで現役バーテンダーは石原さんが横浜では最高齢だそうです。
スパルタでウエイターをしていた時、坊主頭に詰襟のボウイ服で蒋介石に似ていたので、ギリシャ人のお客さんがチャン(蒋介石の英語読みはチャン・カイ・セーなので)と命名してからずっとチャンさんと呼ばれています。
チャンさん、100歳までシェーカー振って美味しいカクテル飲ませてくださいね!
それから、ギリシャ料理店スパルタは現在も吉田町商店街の裏、ノラねこ通りに移転して、3代目の阿久津泰之さんが続けています。
日本で最初にできたギリシャ料理専門店の味も是非楽しんでみてください!