デトロイトのバンドマスターであるウィル・ハドソンが書いた曲で、ニューヨークに公演で来た時、アーヴィン・ミルズに頼んで歌詞を付け1933年にレコード化されましたが、大不況の真っただ中だったのでまったく売れませんでした。ところが翌年ニューヨークのバンドマスター、エディ・デランジが歌詞を短くし、ベニー・グッドマンがアレンジしたバージョンが大ヒット。ウィル・ハドソンが自分のバンドのテーマ曲として書いた曲が、ベニー・グッドマンオーケストラの十八番(おハコ)になってしまいました。

映画「ベニー・グッドマン物語」でもこの曲を演奏してますね。

そして1955年、ウィリアム・ホールデンとキム・ノヴァクが主演してアカデミー賞を受賞した映画「ピクニック」の挿入歌にもなり、リバイバルヒットしました。

アメリカでは9月の第一月曜日が「労働の日」(レイバーデイ)と呼ばれ、夏が去るのを惜しみ、お祭りをするそうです。

無一文の主人公ハル(ホールデン)が降り立ったカンサスの小さな町では、町中のみんなでピクニックに出かけるという風習があり、そのピクニックの場面で、月に照らされたハルとマッジ(ノヴァク)が「ムーングロウ」の曲で踊るシーンは何度観てもうっとりしてしまいます。月の魔力とノヴァクの美しさが合わさればどんな男性も一コロでしょう。もちろんマッジも恋に落ちてしまいますが。

この曲はフルバンドでのチークタイムに使われる曲で、アップテンポの曲で踊り疲れた後にこの曲で一緒に踊っているカップルは間違いなく恋に落ちるという名曲です。

最後にこの曲の歌詞と訳詞をご紹介しましょう。


It must have been moon-glow, way up in the blue. It must have been moon-glow, that led me straight to you.

(あれは青空に浮かぶ月明かりのせいだったのかな。その月明かりのおかげで僕は君と出会えたのかな。)

I still hear you saying “Dearone, holdmefast”. And I start inpraying, ohlord, please let this last.

(今も君の声が耳に残ってる、「早く抱きしめて!」。僕は神様にお願いする、この恋を終わらさないで。)

We seemed to float right thru the air, heavenly songs seemed to come from everywhere.

(あの時二人はまるで宙に浮かんだ気分になって、天国の歌があちこちから鳴り響いてきたんだ。)

And now when there’s moon-glow, way up in the blue. I always remember that moon-glow gave me you.

(おやおや、今も月明かりが青空に昇ってるみたい。僕はずっと忘れない、君を授けてくれた月明かりを。)


なにげないメロディーですが、リフの終わりの2小節をトニックだけにしてクロマチックのハーモニーを楽しむ手法や、サビの出だしの半音ずつ下がるメロディーとハーモニーは最近のポップスでもいろいろな曲に使われています。

あまりにも有名なスタンダードナンバーですね。曲の構成もA、A’だけで、メロディーもコード進行も至ってシンプルなので一度聴いたら簡単に口ずさめる曲です。ただ、この曲はヒットするまでにたいへんな時間がかかりました。

1954年に作曲家・作詞家のバート・ハワードによって作られ、その年ニューヨークのキャバレー「Blue Angel」でフェリシア・サンダースが歌ったのが初演なのですが、同年レコードとして初めてリリースされたのはケイ・バラードが歌ったものでした。しかし当時はまったく売れませんでした。タイトルは「In Other Words」(言い換えると)で、曲調も3拍子、現在演奏されている多くのアレンジとは全く違う感じの曲でした。

その後1956年に、ポーシャ・ネルソンのアルバムにも収録されましたがパッとせず、同年ジョニー・マティスがこの曲をリリースした時初めて「Fly Me To The Moon」というタイトルになりました。ですがほとんどノーリズムのあまりにゆったりとした曲だったのでやはりヒットしませんでした。当時サンフランシスコ州立大学に通う大学生だったマティスはその甘いマスクと抜群の歌唱力でアルバイト先のクラブでスカウトされ、その直後に出した曲です。自分の歌の上手さを前面にアピールする感じと抒情的すぎるのがちょっと押しつけがましい感じになっています(個人的感想ですが)。

1962年。当時流行し始めていたボサ・ノヴァのスタイルにアレンジしたのが作曲家・編曲家のジョー・ハーネルでした。インストゥルメンタルのナンバーでしたが、これが年末から翌年にかけてヒットしました。

1962年度のグラミー賞最優秀ダンス楽団演奏賞を受賞しています。ただ、1961年5月25日にケネディ大統領が表明演説した時から始まったアポロ計画(NASAによる人類初の月への有人宇宙飛行計画)の話題に便乗した宣伝活動による部分も大きかったということです。

そして1964年。何と言っても極めつけはやはりフランク・シナトラでしょう。前述のジョニー・マティスと聴き比べてほしいのですがまったく肩に力が入っていない、押しつけがましくない大人の歌い方です。4ビートのミディアム・テンポで軽快な感じを演出しています。

この曲は、「私を月に飛んで行かせて。そして星たちの間で遊ばせて。木星や火星の春を見せて。つまりそれは私の手を握ってということ。そしてやさしくキスしてということ。」という無邪気で男を困らせる女心を歌ったものです。ですから男性が歌うなら若いマティスよりお金も権力も持っているシナトラの方がしっくりきます(異論はたくさんあると思いますが)。

同時期にナット・キング・コールもリリースしました。そして1965年にはトニー・ベネットもリリースしました。ふたりともシナトラとは違う誠実な歌い方をしています。ヴァースの部分から歌う二人のバージョンも絶品です。最後の「In Other Words,Please Be True,In Other Words I Love You」という部分は、この二人の方が愛らしく誠実な女性をイメージできていいかもしれません。シナトラが歌うと、本心とは裏腹な勝気な女性しかイメージできないので。

余談ですがホイチョイ・プロダクションズの「私をスキーに連れてって」(1987年)のモチーフはこの歌にあるのではと勝手に思っています。

個人的にはアストラット・ジルベルトが拙い英語で歌うボサ・ノヴァのバージョンも大好きです。まだまだ多くの歌手が歌っていますが宇多田ヒカルや椎名林檎や八代亜紀等の日本人歌手も歌ってるし、テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のエンディング・テーマと2000年に公開された映画「スペース・カウボーイ」のエンディングでも使われたので年齢問わずほとんどの方が知っている名曲だと思います。

ラストの場面で月面から地球を眺めるトミー・リー・ジョーンズの映像に、シナトラの歌がカット・インされるところが粋ですね。

またまた余談ですが、シナトラ・バージョンのカセット・テープがアポロ10号・11号に積まれ、人類が月に持ち込んだ最初の曲になりました。
1969年、10号・11号の船内でこの曲を流していたというエピソードもあります。

今でもシナトラが歌うこの曲を聴くと、中学2年生の夏、初めて月面着陸に成功した11号のアームストロング船長が月面に星条旗を立てた映像や、カンガルージャンプをしているオルドリン操縦士の映像をテレビに釘付けになって見ていたことを思い出します。

幼少時代、うさぎが餅つきをしていたり、かぐや姫が住んでいると思っていた月に人類が行けるなんて信じられませんでした。

それも地球から38万Kmも離れた月に。

そして遂に一般人が月旅行に行ける時代がもうそこまでやってきています。アメリカの宇宙旅行会社、スペース・アドベンチャーズが販売している2017年予定の月周回軌道旅行は残りあと1席で、なんと1億ドルから1億5000万ドルもしますが・・・きっと買う人がいるんでしょうね。

もう1席はすでに買われているんですから。噂だと、ジェームス・キャメロン監督だとか。

「Fly Me To The Moon」と言う女性の我儘を本当にきいてあげるお金持ちの男性がいて、ハネムーンやフルムーン旅行に二人で月に行くという洒落が現実になり、船内ではフランク・シナトラの歌う「Fly Me To The Moon」が流れるという映画みたいな話がきっと現実になるんでしょう。

ただ月や火星への移住計画もありますが、神聖な場所を侵すような気がしてならないのは僕だけではないはずです。

未来の子供達は月にうさぎやかぐや姫がいるとは思わなくなるんでしょうね。日本の古代信仰である八百万の神の化身がふたつ無くなる気がします。

謹賀新年2016

 

お客様各位

 

新年あけましておめでとうございます。

 

旧年中は弊社のレンタルトランシーバーをご用命をいただき誠にありがとうございました。

 

本年はより一層のご愛顧を賜ります様、トランシーバーの台数やスタッフ数等さらに充実させ、サービスの向上に努めてまいります。

 

新年は1/4(月)より平常営業いたしております。

 

本年もよろしくお願い申し上げます。

 

平成28年 元旦
株式会社サムシング・ニュー

2015-xmas

 

今年もみなさまには弊社のレンタルトランシーバーをご活用いただき、誠にあ りがとうございました。

 

どうぞ、X’masや年末年始はご家族やお仲間との素敵な時間をお過ごしください。

 

サムシング・ニューは来年も、皆様のCREWとして頑張ってまいりますので、よ ろしくお願いいたします。

 

P.S.
お仕事中の方にはもちろん、ご対応いたしますのでご安心願います。

いつも、弊社トランシーバーをご活用いただきありがとうございます。

 

誠に勝手ながら弊社では、12月29日(火)から1月3日(日)までを年末年始休業とさせていただきます。

新年は1月4日(月)より、通常通り営業いたします。

 

なお、年内及び年始のレンタルトランシーバーのご希望のお客様は誠に恐れ入りますが12月25日(金)までにお申し込み願います。

 

何卒ご理解ご協力の程、よろしくお願いいたします。

1961年 ジョニー・マーサー作詞、ヘンリー・マンシーニ作曲の同年公開された「ティファニーで朝食を」の主題歌。同年のアカデミー歌曲賞を受賞。(因みに翌年もこのコンビが「酒とバラの日々」でアカデミー歌曲賞を受賞。)

僕の学校の先輩でもある小田和正が、中学生の時に「ティファニーで朝食を」を観て初めて自分の小遣いで買ったレコードが「ムーン・リバー」だと言ってます。

揺れる水面に月光の筋が映りこんだ様子を「ムーン・リバー」とも言うらしいですが、実は作詞したジョニー・マーサーの故郷であるジョージア州サバンナの実家の裏に「バック・リバー」という物凄く大きな川があり、その川が「ムーン・リバー」と呼ばれているということです。

この歌詞の中に出てくるrainbow’s endというのはat the end of rainbow,there is a pot of gold(虹の端っこには金の壺が埋まっている)という諺から来ていて、曲がりくねった川の、次のカーブを曲がったところが夢が叶うところかもしれないという意味でしょう。

故郷にいた頃、幼馴染み(huckleberry friend)と冒険したり、いろいろ夢を描いた思い出の川、心のよりどころの川。今は大都会であまりパッとせず、フラフラしてるけど、故郷にいた頃、この川に沿って行けば、いつか夢の叶う所に行き着けると信じていた、その希望を忘れずに、これからもずっと胸に抱いて生きて行こう、そしていつか成功してみせる、そんな思いの象徴が「ムーン・リバー」なんじゃないかと思います。「いつか私は胸をはってあなたを渡ってみせるわ。」というフレーズには「いつか必ず成功してみせるわ」という強い気持ちが込められています。

オードリーが髪を洗ったばかりの姿でギターを爪弾きながら窓辺で歌うシーンは、あまりにへたなので、試写会の時パラマウント映画の新社長がカットするよう指示したらしいですがオードリーが「絶対にカットはさせません。」と猛烈な抗議をして残されました。オードリーの信念がなければ「ムーン・リバー」のあの象徴的シーンは消されていたのでしょう。またオープニング・シーンの、高級宝飾店ティファニーのショウ・ウィンドウの前で、タクシーから降りた主人公ホリーがコーヒーを飲みながらデニッシュを食べるシーンとの対比がオードリー・ヘップバーンの魅力を最大限に発揮しています。

余談ですが、原作者のトルーマン・カポーティはマリリン・モンローを主役にすることを条件に映画化を了承しましたが、モンローは娼婦役を演じることは、セックスシンボルとしてのイメージがますます強くなり、女優としてのキャリアにマイナスになると考え、出演を断りました。

ティファニーに資本主義の繁栄を象徴させ、富による繁栄の空しさとともに自由の大切さを描いた原作とは異なり、ハッピーエンドで終わる恋愛映画になってしまい、皮肉なことにこの映画の公開によって高級宝飾店ティファニーはそれまでほとんど知られていなかった日本でも超人気店となったのです。

また、主人公ホリー(オードリー・ヘップバーン)、日本人アーティストのユニオシ(ミッキー・ルーニー)、作家志望の青年ポール(ジョージ・ペパード)が住む安アパートがある、ニューヨークの超高級住宅街アッパー・イーストサイド地区には実は安アパートなどは1軒もなく、古い街並みを演出するためにこの地区にあるニューヨーカーに愛されているブラウンストーン・スタイルの古い建物が使われました。現在でも外観はまったく変わっていないということです。

「ムーン・リバー」、この曲は多くのジャズ・シンガーを始め、日本及び世界中の歌手が歌っている名曲です。ゆったりとした3拍子の曲で、音域も下がC,上がDまでと狭く、どこにも♭や#を使わず、構成もAメロ16小節、Bメロ22小節だけと短く、しかも最初の8小節はAメロ、Bメロまったく同じという非常にシンプルな曲です。まるで日本の唱歌やアイルランドの牧歌的な民謡のイメージがあり、ジョニー・マーサーの歌詞を忠実に表現していると思います。

ジョニー・マーサーは1,500以上もの曲の作詞を手掛けた人ですが、この頃は作詞家としてより、キャピトル・レコードのオーナーとして莫大な収入を得るようになっていました。そんなビジネスマンとしても成功した50歳を超えたこの頃、ハリウッドの高層ビルのオフィスから眺めた夜景にふと子供時代を思い出して作ったんでしょう。

晴れた日の夜、月島や佃の堤から見た、対岸の高層ビルの上に輝く月が映る隅田川はまさに「ムーン・リバー」そのものです。

きっと誰もが一度は耳にしたことがあるグレン・ミラー楽団のテーマ曲です。

アメリカでは第2の国歌と言われてるくらい愛されてる名曲なんです。

その作曲者であるグレン・ミラーの話を少ししましょう。1904年にアイオワ州クラリンダで生まれ、1915年11歳の時、ミズーリ州グランドシティに引っ越してからトロンボーンを始め、コロラド大学に進学するもほとんど行かずに中退し、ニューヨークでプロのトロンボーン奏者になりますが、全く売れない時代が長く続きました。やがてトミー・ドーシー、ベニー・グッドマン、レッド・ニコルズなどの当時の人気楽団のリーダー達と親交を結び、彼らの勧めで1937年自らの楽団「グレン・ミラー・オーケストラ」を結成後、1939年から1941年のたった3年間に「ムーンライト・セレナーデ」「茶色の小瓶」「イン・ザ・ムード」「真珠の首飾り」「タキシード・ジャンクション」「ペンシルバニア6-5000」「チャタヌーガ・チュー・チュー」と次々に大ヒット曲を発表し、バンドリーダー、作曲家、編曲家として絶大な人気を博しました。しかし第二次世界大戦の勃発に伴い1942年陸軍航空軍に入隊し、慰問楽団を率いて精力的に演奏活動を 行っていました。そんな最中の1944年12月15日、イギリスからフランスへ慰問演奏に飛び立った後、乗っていた専用機が消息を絶ったのです。なんとまだ40歳でした。

そのグレン・ミラーを世に送り出した曲が「ムーンライト・セレナーデ」です。

グレン・ミラーがまだトロンボーン奏者兼アレンジャーとしてレイ・ノーブル・オーケストラに在籍していた1935年当時、妻のヘレンの勧めで作曲・編曲を本格的に勉強し直していました。ある時先生のジョセフ・シリンガーから作曲の宿題を出され、ピアノに向かって作りかけの曲を弾いていると、ヘレンがそばにやってきて「素敵な曲ね。楽団用にアレンジしてみたら」とアドバイスされます。やがてエドワード・ヘイマンが歌詞を書き、「Now I Lay Me Down To Weep」(身を投げてすすり泣く)という歌曲になりましたが当初はまったく注目されなかったようです。できたばかりのこの曲をヘレンにピアノで弾いて聴かせる場面や、初演の時の演奏がミラーの抱く楽想とまったく違ったものになっていて、クラブで聴いてたミラー夫妻がガッカリする場面など、映画「グレン・ミラー物語」の名場面を思い出します。

その後ミラーはテンポをスローにしてアレンジにも手を加え、タイトルを「ムーンライト・セレナーデ」に変えて、1939年ビクターで録音し直します。そしてフランキー・カール作曲の「サンライズ・セレナーデ」とのカップリングで発表したものがミリオン・セラーの大ヒットを記録したのです。間もなくミッシェル・パリッシュが歌詞をつけ、歌曲としても歌われるようになりました。

この曲のテーマ部分は随所にパッシング・ノート(テーマ音に移行する時に使う半音低い音)が使われ、そのハーモニーも当時ではとても斬新なものでした。ミラーが編み出したハーモニゼーションは近代ジャズの基本とも言えるものです。

そのちょっぴり甘く、ちょっぴり切ないテーマ部分をブラス・セクションが絶妙に表現しています。 さらにここでのブラス・セクションによるオブリガート(主旋律を引き立てる短いフレーズ) が、なんとも言えず情感を高める効果を発揮しています。そして中間部のクラリネット・ソロと、間を縫うように流れるピアノが印象的です。まさに月の光の下、愛しい人がいる窓の外で優しく奏でられるにふさわしい名曲だと思います。

是非、フランク・シナトラやエラ・フィッツジェラルド、カーリー・サイモンの歌も聴いてみてください。

もちろんグレン・ミラー・オーケストラの演奏も。

因みにミラー没後71年になりますが、ニュー・グレン・ミラー・オーケストラは現在も世界各地で演奏活動を続けています。

映画「ペーパームーン」をご存じだと思います。アメリカの金融大恐慌時代を舞台にした聖書を売る詐欺師と、母親を亡くした孤児が心の絆を深めていくロード・ムービーです。ライアン・オニールとテータム・オニールの親子が演じ、1973年テータム・オニールが史上最年少で助演女優賞を受賞した映画です。この映画の主題歌「It’s Only A Paper Moon」は1932年に作られ、1933年の舞台と映画「テイク・ア・チャンス」で初めて使われました。大恐慌時代の真っただ中です。

 この歌は、アメリカ人の心の郷愁であった「ペーパームーン」をモチーフにして作られました。まだカメラを持ってる人がほとんどいなかった1900年初頭のアメリカでは厚紙や板(厚紙では無理なので板だと思いますが)で作られた三日月型のお月様(月の女神風の横顔がよく描かれてます)に家族や夫婦、恋人同士で腰かけて写真を撮ることが流行しました。昔のアメリカ映画の田舎の遊園地によく出てくる光景です。この「ぺーパームーン」に腰かけて記念写真を撮ることは、「家族みんなが幸せでいたい」、「子供に幸せになってほしい」、「幸せな結婚をしたい」という庶民のささやかな夢を叶えるシンボルとなっていきました。

 このルーツは、映画草創期に数多くのファンタジー映画を製作したジュージュ・メリエスの代表作「月世界旅行」(1902年)のシーンで、三日月に乗った月の女神と顔のある月のイメージが合成されたものだと言われています。この映画は大成功し、多くのアメリカ人に月に腰かけると夢が叶うという流行を生みました。

 そして第一次世界大戦後の好景気の中、世界一を誇示するアメリカ最大のシンボルとして世界一高いクライスラービルが1928年に着工し、今度はそれを抜く 高さのエンパイア・ステート・ビルディングが1929年に着工されました。しかしその直後に起こった金融大恐慌により、完成後約10年間エンパイア・ス テート・ビルのオフィス部分はガラガラだったそうでエンプティー・ステート・ビルと揶揄されたそうです。

 エンパイア・ステート・ビルPRを目的に製作された映画「キングコング」(1933年製作)をもってしてもテナントは入らず大不況には勝てませんでしたが、おかげで不朽の名画が誕生しました。

 庶民のシンボル「ペーパームーン」とマネーと権力のシンボルである「クライスラービル」、「エンパイア・ステート・ビル」がヨーロッパからもたらされた同じアール・ヌーヴォ、アール・デコの流れから生まれたのはとても皮肉な話です。

 そんな殺伐とした大不況時代に多くのアメリカ人が

「It’s Only A Paper Moon」で心のよりどころを取り戻したのです。その歌詞には「信じていれば願い事が本当のことになるんだ。ただの紙のお月様だって愛があれば本物に見える。お金持ちのように豪華にすることなんかないんだよ。」

という庶民の気持ちが込められています。

 お金や権力や地位ではない、人生で本当に大切なものをこの歌は教えてくれます。

その昔、1883年にインドネシアのクラカタウ火山の噴火後、約2年間「日没は緑に、月は青に変わった。」と言われています。
このように火山の噴火や隕石の落下によって発生するガスや塵の影響でこれを通過する光の色が変わる現象を「ラマン現象」と言うそうです。

もうひとつ科学的・視覚的に立証されていることがあります。波長の長い青紫色の光は地球の大気を通過すると“散乱”を受けて見えにくくなるという性質です。夕暮れに太陽光が斜めに射すと青い光が“散乱”して失われるのです。結果、波長が短い赤色が強調され、空が茜色に染まるのが「夕焼け」というわけです。これは月も同じで、地平線近くにある時は赤味が強調され、天頂部にある時は青みがかって見えるのです。

また、人間の網膜の働きで、明るい場所では赤を鮮やかに感じ、次第に暗くなっていくと青が強調されて見えるようになります。これは、19世紀のチェコのプルキニェという生理学者が発見したもので、「プルキニェ現象」と呼ばれてるそうです。この現象のひとつとして、夕焼け空が次第に暗くなっていき日没後のほんの短い時間、青みがかった空になる時があります。この時間を「ブルーモーメント」と言います。ハワイ島やマウイ島のこの時間は最高にロマンチックです。

こうした“太陽光の散乱”と“網膜のプルキニェ現象”があいまって、日没で暗転した空の天頂部にある月、特に上弦の月が最も青みがかって見えるのです。

では、「ブルームーン」という言葉はどこから生まれたのでしょうか。

天文学、気象学には「ブルームーン」とう用語はありません。様々な言い伝えはありますが、どれも信憑性に欠けます。名前は後で誰かが命名したとしても上記の二つの現象は遥か昔からあったわけです。ですから現在定説になっている1ヶ月に2回満月が見られる時のその2回目の方の満月を「ブルームーン」と呼ぶというのはかなり後の話で、本当に満月が青く見えたものを誰かが「ブルームーン」と名付けたんだと思います。

確かにめったに見れない現象ですから「きわめて稀なこと」「決してあり得ないこと」と言う意味を持つようになり、19世紀半ばには「Once in a blue moon」という熟語が生まれ、「めったに起こらない特別な出来事」という慣用句として使われるようになりました。

「ブルームーン」いうカクテルを飲んだことがなくても聞いたことがある方は多いと思います。(若い方はどうですかな?)このカクテルは19世紀後半にアメリカで生れました。ただ正確な時期や作者は不明の謎の多いカクテルです。ドライジンをベースにバイオレット・リキュールを使うので薄紫色に見え、レモンの酸味とジンのほろ苦さがマッチし、菫の妖艶な香りがするカクテルです。もともとフランスの「パルフェ・タムール」という菫のリキュールを使って生まれたものなので、「完全なる恋」という意味も持っています。ただ、「叶わぬ恋」「出来ない相談」という意味が通念となっています。ですから、「ブルームーン」というカクテルを女性が注文した時は、「あなたとお付き合いしたくありません」というスマートな断り方と取るのか、「完全なる恋」というOKサインと取るのか悩むところです。

もうひとつ「ブルームーン」が現在の定説になる前に生れた名曲があります。その名も「ブルームーン」。1934年にできたロレンツ・ハート(作詞)、リチャード・ロジャース(作曲)の名コンビによるスタンダードナンバーです。(因みに「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」もこのコンビです。)ビリー・ホリデー、ナットキング・コール、フランク・シナトラ、エラフィッツ・ジェラルドなどほとんどの有名ジャズシンガーが歌っています。この曲の中に「ひとりぼっちで見上げてた月は青かったけど、彼女のおかげで今は金色に輝いて見える」という歌詞があります。つまり、この曲で歌われてるようにまだ当時は「ブルームーン」は悲しみや孤独の象徴だったのです。

1946年 カナダのヒスコックという民族学者は「メイン州農民年鑑」に記載されていた“ブルームーン”という言葉を「その月の二回目の満月」という意味で天文雑誌「Sky & Telescope」誌に紹介しました。時は下って1980年、このことをアメリカのラジオ局が番組で紹介したのです。するとリスナーから大反響があり、瞬く間に“ブルームーン”(二番目の満月)という言葉が世に広まりました。でも事実は違っていました。「農民年鑑」では一年を4シーズンに分け、1シーズンに3回の満月に、冬の第一満月を“Moon after Yule”(降誕祭の後の月)、その次満月を“Wolf Moon”(狼月)というふうに名前を付けています。でもシーズンの始まりが満月の場合、4回目の満月が巡ってくることがあるそうです。その名前が付いていないシーズン4回目の満月を「ブルームーン」と呼んでいたのでした。

事実は判明しましたが、すでに手遅れでした。世の中には既に“月の2回目の満月”を「ブルームーン」と呼ぶ誤解が根付いてしまっていました。しかも「ブルームーンをひと目見ることができればいいことが起きる。」「ブルームーンを二回見れれば幸せになれる。」という神話の尾ひれまで付いて。

余談ですが、1955年に菅原都々子が歌った大ヒット曲「月がとっても青いから」(なんとその当時ではあり得ない100万枚を超える大ヒット曲です。)は「月がとっても青いから遠回りして帰ろう」という歌詞からもわかるように、その当時の純愛を表現した歌です。月の光の仄かなロマンチックさに人は魅せられるんですね。

因みに、今年2015年は7月2日と31日が満月なので31日は「ブルームーン」です。2日の満月は「ファーストムーン」と呼びます。

「ブルームーン」は統計上2~3年に一度の現象ですが、2018年1月31日には非常に珍しい“皆既月食のブルームーン”が日本全国でも見られるということです。

今から手帳のカレンダーにブルーの印を付けておいてくださいね。



7/2のファーストムーンは梅雨空で見ることができませんでしたが、7/31は素敵なブルームーンが見れると祈ってます。

みなさん、願い事を決めておいてくださいね。

いつも、弊社トランシーバーをご活用いただきありがとうございます。

 

誠に勝手ながら弊社では、8月13日(木)・14日(金)を夏期休業とさせていただきます。

 

8月13日(木)~8月17日(月)にトランシーバーをご利用の方は恐れ入りますが、8月11日(火)までにお申し込みいただきますようよろしくお願い申し上げます。

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