5/18(月)もんじゃの町月島にレンタル撮影スタジオ「東京月島撮影所」がオープンしました。
撮影を通して多くの人々が出会い、そこにたくさんの新しいドラマを生み出した往年の「映画撮影所」のように、時間を忘れて情熱を傾け夢を追いかける活気溢れた撮影スタジオを昭和の香り漂う月島に創りたい、そして写真という文化を後世に伝えていきたいという思いから「東京月島撮影所」と名付けました。
○1面白ホリゾントのW8mxL11.8mxH4.7mスタジオ
○スタジオ内にキッチンを併設
○真俯瞰撮影OK
○搬入口はバリアフリーで間口がW2.34mxH2.4m
○無料駐車場3台(大型・ハイルーフOK)
東京メトロ有楽町線/都営地下鉄大江戸線 月島駅 7番出口より徒歩3分
下見も可能ですので是非、ご利用ください。
※下見及び予約お申込みの際は弊社の紹介とお伝えください。
東京月島撮影所 → http://www.rental-studio.tokyo
お客様各位
いつもサムシング・ニューのトランシーバーレンタルをご利用いただき誠にありがとうございます。
弊社入居ビルにおきまして工事停電のため、下記の期間、電話・FAXと一部業務を一時停止させていただきます。お客様には大変ご迷惑をお掛けいたしますがご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
記
■停止期間:
2015年1月15日(木) 午後2時~3時
■停止内容:
電話、FAX の受送信、一部の業務
※お急ぎのご用件の場合、転送にて電話応対可能ですが、回線数に限りがございますので予めご了承ください。
以上、ご不便をおかけいたしますが、よろしくお願い申し上げます。
お客様各位
いつもサムシング・ニューのトランシーバーレンタルをご利用いただき誠にありがとうございます。
甚だ勝手とは存じますが12月27日(土)から1月4日(日)までの9日間を年末年始の休みとさせていただきます。
年末年始休業期間中でも予めお申込みいただいているお客様につきましてはトランシーバーをご利用いただけます。
この期間のレンタルのご利用をご希望されるお客様は誠に恐れ入りますが12月25日(木)までにお申し込みください。
何卒ご理解ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
本年も残すところ僅かとなりました。皆様のご支援とお引き立てに深く感謝申し上げるとともに来年もまた一層のご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
「動きながらだと、イヤホンが耳から外れやすい。イヤホンをしていると動きづらい。」「トランシーバーを肩から下げて使いたい! ベルト無しでも使えた方が便利!!」等、特に女性からのご要望が多かったのですが、トランシーバーのお貸出し時に今までの装備(イヤホンマイク・予備バッテリー・予備イヤホンマイク・ホルダー・充電器)に加え、

イヤホンフック

ウェスト・ショルダーポーチ

首掛けストラップ

をお付けしてレンタルさせていただきます。
ご希望の方はお申し込み時にお伝えください、無料です。
このようにサムシング・ニューではお客様によりご利用いただきやすいように、常にサービスを改善しております。
ぜひ、当社のレンタルトランシーバーをご利用ください。
1969年、ジョンの曲がシングル盤として2曲リリースされました。
1枚は4月11日にリリースされた「ゲット・バック」のB面「ドント・レット・ミー・ダウン」。もう1曲は5月30日にリリースされた「ジョンとヨーコのバラード」。この2曲の共通点はジョンのヨーコへの思いを歌ったところですね。
「ドント・レット・ミー・ダウン」は1月28日にアップル・スタジオでレコーディングされたもので、この時期のビートルズメンバー最悪の状態から脱出したいと、ヨーコに救いを求めているように感じます。ジョンの悲痛なまでのヴォーカルが最高です。(ポールのアイデア溢れるメロディアスなベースには心底脱帽してしまいますが・・・)
どんなに最悪な関係の時でも音楽に対する愛情と情熱、相手への尊敬の念、プロ魂みたいなものが伝わってくる名曲だと思います。何度聴いても泣けてきます。
もうひとつの「ジョンとヨーコのバラード」は3月20日の結婚式直後に書かれた曲で、4月14日にアビイ・ロード・スタジオでジョンとポールの二人だけでレコーディングされました。この時いかに機嫌よくノリノリでレコーディングが行われたかがわかる曲です。
どちらの曲もとてもシンプルなコード進行で、自分の原点であるロックに戻ろうという気持ちが窺えます。その傾向は最後のアルバム「アビイ・ロード」の中でも感じます。
この「アビイ・ロード」は「レット・イット・ビー」のレコーディングが終わって間もない1969年2月22日から8月19日にかけて収録されました。
このアルバムの冒頭を飾る「カム・トゥゲザー」。(ここでもポールのメロディアスでファンキーなベースが絶品です。・・・ あまりポールを褒めたくないのですが、彼ほど天才という名が相応しい人はいないのではないかと思います。)そしてA面最後の「アイ・ウォント・ユー」。2曲ともとてもシンプルなコード進行で、ジョンらしいヴォーカルが聴ける名曲です。もう小細工は一切しなくなりましたね。
ヘビーなロックで始まり、ヘビーなロックで締め括られるA面が終り、B面の2曲まではビートルズですが、B面の3曲目からまるでビートルズとは思えない荘厳なシンフォニーのようなメドレーが始まります。(曲や構成は素晴らしいと思いますが、個人的にこれがビートルズの目指していた最終形だとは思いたくないし、またここにはいかにもポールがプロデューサーとして力を発揮している感じが見えます。)
メドレーの中にジョンの曲が3曲あります。「サン・キング」と「ミーン・ミスター・マスタード」と「ポリシーン・パン」です。ただ、このB面3曲目からはポールの作品という感が否めない構成に仕上がっているので、「サージェント・ペパーズ」のようなジョンのメッセージが消えてしまっています。
ポールがプロデューサーとして見事だと思う特出する点は、まずB面3曲目からのメドレーが始まる前にジョンの「ビコーズ」を持ってきたこと。この曲はベートーヴェンのピアノ・ソナタ「月光」をヨーコが弾いてるのを聴いて想いついた曲だそうで、9パートのハーモニーに仕立てたアカペラの曲はメドレーの序章にピッタリですね。
もう一つは、B面最後の「ジ・エンド」(もうひとつおまけの「ハー・マジェスティ」がありますが。)でリンゴに初めてドラム・ソロを叩かせたことでしょう。あれほど嫌がって一度もソロを叩かなかったリンゴをようやく最後に説得しました。
音楽家としてでなく、プロデューサーとしてのポールを褒めてしまうことになってしまいました。 もちろん音楽家としても天才だし、大好きな曲もたくさんあります。ただ、世間ではビートルズのヒット曲はほとんどポールが作ったものだと思っている人がかなりいるし、ポールがビートルズの中心人物だったように思っている人もいるので、ジョンの音楽家としての素晴らしさと偉大さを少しでも理解してもらえればと思い、書いてきました。
「アビイ・ロード」がリリースされる9月26日より少し前の9月20日にジョンは他の3人にビートルズ脱退を告げます。ただ公表はしませんでした。そんな簡単には決断できなかったのだと思います。
そして翌年の1970年4月10日にはポールがビートルズ脱退を表明。
ビートルズの解散が初めて公の場で明らかになるとジョンはショックを隠し切れなかったそうです。自分から言い出したとはいえ一縷の望みを持っていたのでしょう。
翌月の5月8日に最後のオリジナル・アルバム「レット・イット・ビー」がリリース。映画も5月13日にニューヨークでプレミア上映されます。でもメンバーは誰も出席しませんでした。
暫くしてからジョンは地方の映画館でヤン・ウェナーと一緒に鑑賞し、号泣したそうです。
そしてこの年の夏にはアップルは実質閉鎖になり、12月30日にはポールがビートルズのパートナーシップ解消を要求する訴訟を起こし、ジョン、ジョージ、リンゴの3人を告訴します。
翌年1971年3月12日、ポールの「ビートルズ解散」要求訴訟が認められ、ビートルズの幕を閉じることになりました。
なんともやりきれない幕切れでした。
ジョン、ジョージ、リンゴの3人は上告もせず、また、ビートルズの音楽著作権もほとんど手放したまま放棄してしまいました。
やはり1967年8月27日に亡くなったブライアン・エプスタインの存在がジョンにとって、またビートルズにとっていかに大きかったか・・・
ただ、最愛の伴侶であるヨーコのおかげで、このあと新たなジョンの歴史が始まります。
1969年1月17日に「ディスク・アンド・ミュージック・エコー」紙のインタビューでジョンが語ったように、すでにアップルは崩壊寸前でした。
経営困難に陥ったアップルとビートルズを救うため、ジョンは2月3日、アラン・クラインをビートルズのビジネス・マネージャーに推薦します。しかし翌日の4日にポールはすかさず、後の妻となるリンダの父リー・イーストマンと兄ジョン・イーストマンを顧問として迎え入れ、ジョンとポールの亀裂はもう修復の余地はない状態にまでなりました。
そんな最中、1月2日から1月30日にかけて「レット・イット・ビー」のレコーディングが集中的に行われました。
このアルバムは当初「The Beatles Get Back」というタイトルで1969年8月に発売される予定で、ジャケットの写真も最初のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」の時と同じ場所で撮影したものを使用するはずでした。さらにメンバー全員の意思としてここ数年レコードを飾り立ててきた終わりのないオーヴァーダビングなどの細工を一切施さずに制作することによって「もう一度みんなで原点に帰ろう」というメッセージが込められたものになるはずでした。
しかし、レコーディングはしたものの、1曲に何十テイクも録った中からベストヴァージョンを選ぶ作業に誰しも意欲はなく、プロデューサーのグリン・ジョンズとフィル・スペクターにすべて委ねられました。最終的にはフィル・スペクターの手で再編集とリミックスが施され、「アクロス・ザ・ユニバース」「アイ・ミー・マイン」「レット・イット・ビー」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の4曲は女性コーラスとオーケストラを加えたものになってしまいました。
このレコーディング・セッションはもともとTV用に撮影され、また全世界で放映されるライヴのリハーサルとして行われたものでした。
でも最終的には映画館で上映されることになり、その封切りに合わせて、発売も1970年の5月8日になりました。(アメリカでは5月18日。)
その時にはすでにグループは崩壊していました。皮肉にもジャケット・デザインは黒い葬儀写真風になっています。余談ですが、これはジョン・コッシュによるものです。彼もわかっていたのか、それともホワイト・アルバムの後だからブラックにしたのか・・・
余談ついでに、1月30日アップルスタジオのあるビルの屋上でのライブは急遽メンバーが合意して実現したゲリラライブでした。
この狭いスペースの中にコントロールルームは作れず、屋上から地下まで階段を伝って配線を延ばし、グリン・ジョンズとアラン・パーソンズがアップル・スタジオの中でミキシングとレコーディングの作業を行いました。
屋上は風が強く、その対策としてアラン・パーソンズはセッション前にデパートで女性用のストッキングを買ってきてマイクにかぶせたそうです。また、気温も2度しかなく、「手がかじかんでコードが弾けない」というジョンの声も聞くことができます。
最後の曲「ゲット・バック」の演奏中に警官が現れ、マル・エヴァンスがギターアンプの電源を慌てて切ってしまうところはまさにライブ・ドキュメンタリーですね。
さて、「レット・イット・ビー」のアルバムの中で特筆すべきジョンの曲はありませんが、「アクロス・ザ・ユニバース」は今までジョンが作った曲の中で最もシンプルなものでしょう。
この曲はホワイトのレコーデイングより先に、1968年2月4日にレコーディングされたものですが、フィル・スペクターのアレンジ前の「ネイキッド」に収録されているバージョンを聴くと一切の装飾や小細工を取り除き、自然のままに生きる決意をしたジョンの姿勢が感じられます。
後の「イマジン」に通じる名曲だと思います。
1969年2月2日にトニーコックスと離婚したヨーコとついに3月20日ジブラルタルで結婚式を挙げます。
(この結婚と新婚旅行の歌が「ジョンとヨーコのバラード」です。4月14日にレコーデイングされましたが、何故かこの時はジョンもポールも機嫌がよかったらしく、予定よりかなり早く終了したそうです。)
そして3月25日~31日と5月26日~6月2日に「平和のためのベッド・イン」記者会見を行ったり、ジョンとヨーコのグループ「プラスティック・オノ・バンド」のデビュー・シングル「Give Please A Chance」を7月4日に発売したりと、ビートルズ以外の活動が中心になりビートルズ解散は時間の問題となってきました。
そんな中、もう一つの最高傑作と評される「アビイ・ロード」のレコーディングが行われたのです。
1968年2月15日、マハリシのもとで超越瞑想を長期的に行うために、妻のシンシア、ジョージ夫妻とともにインドのリシケシュへ出発。インド滞在中に Dear Prudence や Julia を始め、たくさんの曲を書きました。
また、マハリシの悪い噂を確かめる目的もあったようで、実際マハリシに幻滅したジョンはシンシア、ジョージ夫妻と一緒に4月12日、予定より1ヶ月も早くインドを離れます。荷造りをしている時に書いた Sexy Sadie でマハリシに対する幻滅と怒りがわかります。
インド滞在中、ヨーコと頻繁に手紙のやりとりをしていたジョンは、「アップル・パブリシティ」設立記者会見の終了後すぐに、ウェイブリッジの自宅にヨーコを招き、一緒に UNFINISHED MUSIC No.1:TWO VIRGINS を制作。レコーディングが終了した夜明けに二人は結ばれました。5月20日のことです。
そして5月30日から、通称ホワイトアルバムと呼ばれる The Beatles のレコーディングが開始されます。完成まで全アルバム中、最長の約5ヶ月半という時間がかかりました。
このアルバムの中でヨーコは、The Continuing Story Of bungalow Bill 、 Revolution9 、 Julia などのレコーデイングに参加。
意見や批判まで述べるようになったヨーコの存在をジョンは一心同体であると他のメンバーに説明しましたが、もちろんみんな閉口。ガールフレンドであれ妻であれスタジオには決して連れてこないというグループの固い不文律をジョンは破ってしまったわけです。
あろうことか、ヨーコはスタジオにベッドまで持ち込みました。ヨーコのおかげで4人の関係は最悪の状態になり、スタジオに4人が全員揃うことは少なくなりました。
このアルバムをソロ作品の寄せ集めという人もいます。確かにビートルズ以外のミュージシャンを使って各自が代わる代わるレコーディングした曲が多いのは事実です。ロックンロール、ハードロック、ブルース、カントリー、スタンダードポップス、フォークロック、サイケデリアなど多種多様な曲が30曲もありますが、SIDE1からSIDE4を別々のアルバムと思って聴いてみるとそれぞれにストーリーがあるように感じます。
特にSIDE1とSIDE2が好きです。また、息子のジュリアンのために書いた最後の Good Night も大好きです。
ただ、その前の8分15秒もある Revolution9 はヨーコのアイデアに触発されて作った音楽のモンタージュと言う感じで、現代音楽的な挑戦とも言えますが、LSDやマリファナをやりながら叫んでいるジョンが目に浮かびます。他のメンバーもジョージ・マーティンもこの曲を外そうとした気持ちはさすがにわかります。
このような様々な30曲を白一色で包んだジャケットは、聴き手に自由に感じ取ってほしいという気持ち、飾り気を一切捨てたこれが今のビートルズですというピュアな気持ちの表れだと思います。
余談ですが、アイデアは画家のリチャード・ハミルトン、そしてパッケージ・デザインはゴードン・ハウスが担当しました。
イギリスでは1968年11月22日にリリース(アメリカは11月25日)。
リリース後1ヶ月で400万枚以上に達し、1970年末までに2枚組アルバムとしては驚異的な650万枚の売り上げを達成。1977年の「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラがリリースされるまで、2枚組アルバムの売上No.1を保っていました。
さて、話をジョンに戻しますが、この年は音楽以外の活動も精力的に行います。もちろんヨーコとの活動です。6月2日~9日までロンドンのドルリー・レーンで初めて公の共同展を開催し、6月15日には全国彫刻展覧会の参加作品として、二人でコベントリー大聖堂の庭にふたつのドングリを植えました。
そして、ジョンの最初の著作 IN HIS OWN WRITE を脚色した芝居がロンドンのオールド・ヴィク・シアターで上演され、オープニングに二人で出席。
7月1日にはロンドンのロバート・フレイザー・ギャラリーでジョンの初の個展「ユー・アー・ヒア」が開かれ、オープニングにジョンは真っ白な洋服で登場、365個の風船を飛ばしました。
そのような平和運動と芸術活動をヨーコと共に次々と実現させていってた最中の8月22日、シンシアがジョンとの離婚訴訟を起こします。そんなことはまったく意に介せずという感じでジョンはヨーコと、前衛フィルム FILM No.5(SMILE)TWO VIRGINSを制作。11月14日には「シカゴ・フイルム・フェスティバル」で上映されました。
11月8日にはシンシアとの離婚が成立しましたが、11月21日にロンドンのクイーン・シャーロット病院でヨーコが流産します。そしてその翌日、ビートルズ自身のアップル・レーベルからの初アルバム、THE BEATLES が発売されました。
事件も重なりました。
ジョンとヨーコは強制的なでっちあげ捜査で10月18日に大麻不法所持で逮捕され有罪判決となり、後々アメリカ入国の大きな障害になったのです。
そして11月29日にヨーコとの初の共同アルバム UNFINISHED MUSIC No.1 TWO VIRGINSがイギリスで発売されたものの、ふたりの全裸ジャケットが問題となり、すぐに発売禁止に。
ですが、その後も共同フィルムRAPEを制作。12月18日にはロイヤル・アルバート・ホールで行われたアンダーグラウンド芸術運動のクリスマス・パーティー「錬金術上の結婚式」のステージにふたりで白い袋を被って登場するなど、益々ふたりの活動は精力的になっていきました。
しかしもう一つの大きな問題がこの時期に膨らんできます。
5月14日にニューヨークのアメリカーナ・ホテルで設立記者会見を開いたビートルズの会社「アップル・パブリシティ」。
音楽、出版、エレクトロニクスなどの各分野の埋もれた才能を発掘し、ビジネスと芸術の融合を目指すという壮大な理念を掲げ、チャンスに恵まれないアーティストたちに自分たちの知識やお金を還元しようと考えましたが、現実は毎日おびただしい数のヒッピーがお金目当てに訪れ、アップルはあっという間に財政危機に陥ってしまったのです。
その中で後世に残る素晴らしいアーティストも発掘しましたが。メリー・ホプキン、バッド・フィンガー、ジェイムス・テイラー・・・
ビートルズ自身も8月26日に記念すべき第1弾シングル「ヘイ・ジュード」(B面レボリューション)をリリース。
ですが会社経営はまったくの素人と言っていいビートルズ。前年にブライアンが亡くなって以降、自分たちでマネージメントもできると思い込んでしまったのかもしれません。
このアップル設立が結局ビートルズ解散の決定的な引き金となってしまったのです。
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消費税法改正により、消費税が2014 年4月1日(火)より現行の5%から8%に変更となります。 これに伴いましてサムシング・ ニューでは、“消費税のお取り扱い” について、以下のような対応となりますので、ご案内申し上げます。
■消費税のお取り扱いについて
レンタル期間に2014年4月1日(火)以降が含まれる場合は8%の消費税を申し受けます。
例1
レンタル期間が3/25~3/31の場合 → 消費税5%にてご請求
例2
レンタル期間が3/30~4/1の場合 → 消費税8%にてご請求
例3
レンタル期間が4/1~4/2の場合 → 消費税8%にてご請求
※発送日及び返却日は含まれません。
※事前入金の場合でも上記の通りご請求させていただきます。
以上、ご不明点 がございましたら、サムシング・ニューまでお問い合わせください。
これからも引き続きご愛顧いただきますよう、 どうぞよろしくお願い申し上げます。
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なお、1月6日(月)からは通常通り営業いたします。
休みの間にいただきましたお問い合わせやお申し込みにつきましては、1月6日(月)より順次ご対応させていただきます。
何卒ご理解ご協力の程、よろしくお願いいたします。
本年も残すところ僅かとなりました。皆様のご支援とお引き立てに深く感謝申し上げるとともに、来年もまた一層のご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
前回に少しだけ書いた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が1967年2月17日にペニーレイン(ポール作)と一緒にシングル・リリースされました。(アメリカでは一足早く2月13日にリリース)
どっちがA面とかは私にとってはどうでもよいので語りません。(両方ともA面という人もいますが。)
「ストロベリー・フィールズ」はジョンが育った家の近所にある救世軍本部(孤児院)のことで、そこで開かれるパーティーでの楽しいひととき、古き良き思い出に浸りながら、虚無的な世界を描きたかったのでしょう。
音響アレンジのことは「サージェント・ペパー」で書いた内容と重複するので省きます。(逆回転のテープループなど。)
まず特徴的なのは、ジョンのけだるい歌い方です。フェイザーなどのエフェクトをかけて空中を浮遊する感じが何とも言えません。
そしてこの曲の重要な要素は音の隙間です。現実感を排除する素晴らしい効果を出しています。
曲の構成はいたってシンプルですが、所々に2拍子・3拍子を混ぜて曲調を微妙に変化させたり、Bメロの冒頭部分のキーをB♭からFに転調した感じにしたり、ジョンならではの真骨頂が随所に発揮されてます。
この年の締めくくりのアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」にも収録されてますが、この曲はある意味、ジョン個人にとっても時代的にも1967年を象徴した曲のひとつと言えるでしょう。
もうひとつ、同じように構成も曲調もいたってシンプルな曲をこの年リリースします。
ジョンの掲げる「ラヴ&ピース」の代名詞にもなった「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」です。
この曲も「マジカル」に収録されてますが、1967年6月25日の世界同時衛星生中継番組「アワ・ワールド」で、視聴者の前でライヴレコーディングするという企画で、作られた曲です。
本当は、6月14日にオリンピック・スタジオでバッキング・トラックを、6月19日にアビイ・ロード・スタジオでヴォーカルと追加バッキングをレコーディングし、そして6月24日に最終レコーディングを行い、翌25日に完成したバッキング・トラックに合わせ、生で歌い演奏しました。テレビでは視聴者にレコーディングを実際にしているように見せることはできたわけです。(ジョンのリード・ヴォーカルは翌26日に再レコーデイングされました。)
そしてイギリスでは7月7日の七夕の日?にシングル・リリースされ、4週間1位に。アメリカでも7月17日にリリースされ、1位になりました。
曲の特徴としては、この年他の楽曲でもよく使われた変拍子が用いられている点です。4拍子と3拍子の繰り返しで始まります。また、もうひとつこの年ジョンお気に入りになったベース音が下降していく展開がBメロの中でみられます。
G-D(onF#)-Em-G-D(onF#)-Em-Am7-G-D(onF#)-D(onE)-D-D(onC)-D(onB)-D(onA)-Gという展開です。
そしてジョンがハープシコードでバッキングを入れている点も聴き逃せません。音質がクリアなので、軽いタッチの仕上がりになってます。
オーケストラ的サウンドはこの年から定番的になってきましたが、ポールの意向と主張が強く感じられるので多くは語りません。ジョンの趣向ではなかったはずです。それはジョンがソロになってからリリースしたアルバムを聴けばわかるでしょう。
イントロでは「フランス国歌」が、エンディングでは、「イエスタデイ」、「シー・ラヴズ・ユー」の歌と「イン・ザ・ムード」「グリーン・スリーブス」の演奏が入り、明るく楽しい雰囲気を醸し出してます。
もうひとつ、「マジカル」の中に収録されてる曲で、ジョンの最後のサイケデリック・ソングと言われてる「アイ・アム・ザ・ウォルラス」がこの年の大傑作と言えるでしょう。
1967年11月24日に「ハロー・グッドバイ」のB面としてシングル・リリースされました。(B面と聞いてジョンはかなり憤ったそうです。)
この年、ジョンにとってショッキングな出来事が起こります。それは、ジョンの兄とも父親ともいえるマネージャーのブライアンの死です。1967年8月27日 享年32歳。睡眠薬の過剰服用による死亡と推定されてますが・・・
その9日後からこの曲はレコーディングされました。
モチーフは、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」に出てくる「セイウチと大工」ですが、そのクレイジーでシュールな詞はトリップしながら書いたものだと誰でもわかるでしょう。ブライアンの死によるジョンのやり場のない気持ちが伝わってきます。
詞については訳詞がネットでも見れるので解説はしませんが、まるでダリの絵画をみるような気がします。
ひとつだけ解説すると、歌詞の中に登場するエッグマンはジョンの造語ですが、マザー・グースの童謡に出てくるハンプティー・ダンプティーとアニマルズのヴォーカリスト、エリック・バードンから浮んだものだそうです。エリック・バードンはその奇妙な性癖から「エッグ」と何故か呼ばれてました。(歌詞にもあるようにきっと頭を伸ばす芸とか持ってたのかも。)
さて、曲についてですが、まずエレクトリック・ピアノ(ウーリッツァという当時コンパクトなボディで人気があったモデルです。)でジョンが弾いてるイントロのリズムが印象的です。3度5度の和音とルートの音を交互に8分音符で奏でるだけのシンプルなリズムですが、これは、ジョンがある日、自宅前を通った救急車のサイレン音のドップラー効果による高低のサウンドと規則的な音の間隔にインスパイアされたものだそうです。
そしてAメロ・Bメロの部分は3和音の4分弾きでベーシックな部分をしっかり作り、歌詞もリズムの一部になって、韻をふむ言い回しがとても生きています。また最後の繰り返しの部分では回を重ねる毎に1オクターブ上がり、リズムも4分から8分そして16分と変化をつけ、盛り上がっていきます。それから、前半と後半をつなぐ部分とエンディングに聴こえるラジオ音は、ジョンがBBCのラジオ放送のダイアルを回して適当に録った音声をリミックスの段階で入れたものですが、最後に聴こえるセリフはシェークスピア作リア王の一部です。
この曲のキーはAですが、イントロはB-A-G-F-E-E7-D-D7、AメロはA-C-D-A-C-D-A、BメロはA-D-F-G-A-F-B-C-D-E、後半はB-A-G-F-E-F-B-C-D-E-D-C-B(ここのメロディーはインド音楽を感じさせますね)、最後はA-G-F-E-D-C-Bの繰り返しです。
この展開からもわかるようにキーCのスケール上の音をルートにしたメジャーコードで下降させたり、上昇させたりしてるだけですが、キーがAなのに、Eにも、Bにもなるような展開で、いったいキーは何なのかわからないという魔法のようなテクニックです。おそらくプロのミュージシャンでも譜面なしで聴いただけでは、キーがすぐにわかる人は少ないと思います。メロディーもイントロの交互に上下する規則正しい音が繰り返し続き、まるでお経のようです。しかしフレーズの締めくくりはまさしくロックです。エンディングに至ってはこれぞ真のロックと言えるでしょう。もうひとつこのコード進行は、ローリング・ストーンズやクリームやジミ・ヘンやベンチャーズ(ロックグループか?)など(挙げていくとキリがないのでこのへんで)のロックグループが必ずやると言っていいコード進行の総集編みたいです。シンプルなのに画期的な雰囲気を醸し出す、ジョンのにくい技が隠された、まさにプロ好みと一曲と言えるでしょう。
ヴォーカル・エフェクトにもファズやフランジャーを使い、サイケな中に重厚感も感じます。
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のリリースから「アイ・アム・ザ・ウオルラス」のリリースまでの間に、ジョンはマリファナだけでなくLSDも常用するようになり、瞑想と幻想の世界に浸る時間が増えていった。そして8月24日に敬愛するマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー師に出会い、その直後に大切なブライアンを亡くしました。
11月27日にリリースされたアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」も、12月26日にBBCで放映された同名のテレビ映画もポールのアイデアをもとに制作されたものですが、1967年はジョンにとってまさに「マジカル・ミステリー・ツアー」といえるでしょう。
翌年、ジョンはインド音楽そして文化・思想にますます傾倒していくようになります。また、ジョンにとってかけがえのない人になるヨーコ、そして盟友ポールとの関係が決定的になる年、それが1968年です。