太田なわのれん
今回は横浜が誇る名物料理「牛鍋」をご紹介いたします。
1859年横浜港が開港し、西洋の食文化、肉食文化が流入して、牛鍋の歴史が幕を開けました。
外交上、政府が牛肉奨励を推し進める中、明治5年に天皇が初めて牛肉を召し上がられ、一気にブームとなり、その後高級料理店で牛肉が扱われるようになりました。
そして徐々に一般の人々にも牛肉への憧れが広まっていき、劇場や遊郭が建ち並ぶ横浜一の歓楽街である伊勢佐木町にも、後に横浜の牛鍋屋御三家と呼ばれるお店ができました。
「太田なわのれん」「じゃのめや」「荒井屋」の3店です。
その中で最も古い歴史をもつ「太田なわのれん」からご紹介いたします。
太田なわのれんは、明治元年に高橋音吉という人が、今と同じ場所の中区末吉町1丁目に開いてから156年以上の歴史をもつお店です。
ここの牛鍋は独特です。まずお肉はぶつ切りです。その理由は、お店を開く前に牛肉の串焼きを屋台で売っていたのと、初代音吉氏は大酒のみで、朝からほろ酔いで肉を調理するから、薄く切るのが面倒なため、ぶつ切りになったそうです。それがかえって評判を呼び、今も頑なにぶつ切り一筋です。
太田なわのれんの牛鍋
そしてもう一つ独特なところは、味噌をタレにして牛肉を煮ることです。
これは、初代音吉氏が牡丹鍋(山猪鍋)にヒントを得て、考案したそうです。
味噌だれで肉を煮て、その風味とネギで肉の臭みを消し、炭火の七輪にかけた浅い鉄鍋の火回しでうまく工夫するものです。
ここは仲居さんが最後まで調理してくれます
牛鍋の出来上がり!
戦中、鉄製のものはすべて軍に没収されてしまうので、鉄鍋は地中深くに埋めて保管していたそうです。
今でも戦前からの鉄鍋を使っていると仲居さんが説明してくれました。
入口の縄のれんがこのお店のシンボルです
太田なわのれんの「太田」は明治の頃に一時移転した場所(赤門付近)の名前ですが、「縄のれん」は、明治初期、蠅が店内に入らないようにする唯一の方法だったらしく、太田にある縄のれんが掛かっているお店がそのまま店名になったというわけです。
戦中・戦後初期に日本の漫画界をリードした横山隆一氏の代表作「フクちゃん」がお店のキャラクターです
伊勢佐木町通り側からのじゃのめや
戦前のじゃのめや
じゃのめやの宴会専用入口
次にご紹介するのが「じゃのめや」です。
このお店は、明治26年、今と同じ場所 中区伊勢佐木町5丁目に、山崎繁太郎氏が開きました。
「蛇の目の傘が置いてあるお店」が店名の由来だそうです。
牛鍋が流行りだした頃、繁太郎氏は父の彦三郎氏と共に千葉から横浜に出てきて、庶民の人にも牛鍋を食べてもらいたいと、屋台の牛鍋屋を始めました。
そしてお店を開業してから130年以上、衰退してしまった伊勢佐木町通りで、5代目オーナー山崎謙吉氏が伝統ある歴史と味を今も守り抜いています。
現在の荒井屋本店
改築前の荒井屋本店
荒井屋本店の宴会専用入口
3番目にご紹介するのが「荒井屋」です。
このお店は、明治28年、今と同じ中区曙町2丁目に、荒井庄兵衛氏が開きました。
こちらも130年近く、親不孝通りというイメージの良くない場所ですが、4代目女将の荒井順子氏が伝統ある歴史と味を守り抜いています。
突然ですが、すき焼きと牛鍋の違いについて。
すき焼きは関西発祥で、最初に肉を焼いてから割下を入れますが、牛鍋は関東発祥で、肉を焼かず最初から割下を入れて煮る感じです。
後の調理は同じで、具材も変わりません。
牛鍋は最初から割下を入れます
最後に美味しそうな、じゃのめやと荒井屋の牛鍋をご紹介いたします。
じゃのめやの牛鍋 ざくに玉ねぎが入るのが特徴
荒井屋の牛鍋
どちらのお店も仲居さんが最初だけ調理してくれるのが醍醐味です。
最初に割下を入れ、まずはざく(野菜をザクザク切るので)の玉ねぎ(じゃのめやだけ)、ネギ、豆腐、シイタケ、白滝、春菊を少しずつ入れ、牛肉を数枚。よい具合に肉に火が通ったところを見極め、仲居さんが溶いてくれた卵の器に入れてくれます。
すき焼きと違い、肉を焼いていないので、牛鍋ならではのふわっと柔らかな感じが楽しめます。
残りの肉と野菜は自分で調理。締めはうどんかきしめんで・・・これも仲居さんが調理してくれます。
どうです、よだれが垂れてきませんか!
若葉町二丁目にあった伝説のお店「根岸屋」。昭和30年代に2階建になりました。
前回のよこはま物語その23で、黒澤明監督の映画「天国と地獄」の、黄金町を舞台にした一場面を紹介いたしましたが、誘拐犯人竹内銀次郎の共犯者死亡がマスコミの協力で明るみにされず、まだ生きている可能性を恐れた竹内は、証拠隠滅のため共犯者を殺害しようと、純度の高いヘロインを入手するため伊勢佐木町にやって来ます。
そしてヤクの売人と落ち合う約束をした場所が、この「根岸屋」でした。
映画では、実際の倍以上の大きさのセットを造ったそうです。
根岸屋で、ヤクの売人を待つ竹内。モノクロ映画でしたが、「椿三十郎」と同じ手法で、目印の赤いカーネーションだけ色が付いていました。
尾行している刑事たちの変装が、このお店のお客達そのものでした。
船員、サラリーマン、愚連隊、ヤクザ、沖仲仕、浮浪者、売人、遊び人、華僑など。
もちろん変装してない洋パンさん(外人相手の売春婦)、夜の女の人、おかま、GI達も実際にたくさんいました。
外壁に「根岸屋総本店」の看板がありますが、女将のスミさんの縁者の方々が戦前から横浜で根岸屋というお店をいくつかやっていたので、区別するためにそうしたそうです。
また、「INTERNATIONAL RESTAURANT」の看板もあります。
根岸屋は、開業時から当時としては画期的な24時間営業の大衆酒場で、ここには世界中のお酒が揃っていました。
洋酒、日本酒、焼酎、ビール、カクテルの他に、朝鮮や中国のお酒もありました。
料理は、寿司・天ぷら・焼き鳥・すきやき・そば・うどん・ラーメン・カレーライス・丼もの・中華・洋食、そしてお雑煮もありました。
もちろん横浜名物ナポリタンもありました。
根岸屋入口で靴紐を締めるGI。昭和21年当初の根岸屋です。
根岸屋は、坂元明・スミご夫妻が1946年(昭和21年)に創業しました。
入口には枝ぶりの悪い松の木と貧相な植込みがあり、黒い瓦屋根で漆喰の壁。
最初は平屋でした。
実際の根岸屋店内風景
根岸屋は伊勢佐木町通りのオデオン交差点を真っすぐ行って、二本目の伊勢佐木町四丁目を右折して、すぐ左側にありました。
少し先には、美空ひばりの弟である かとう哲也(芸名小野透でコロンビアから1957年に歌手デビューしましたが、ほとんど売れず、1年後には美空ひばりの映画で俳優デビュー)が1960年代から経営していたグランドキャバレー「おしどり」がありました。
しかし、かとう哲也は山口組系益田組の舎弟頭でもあり、傷害、暴行、賭博、拳銃密輸などで何度も逮捕され、「おしどり」は1970年代に潰れてしまいました。
かとう哲也を可愛がっていた根岸屋の女将 スミさんは横浜では有名な女傑で、その度に警察に行って、かとう哲也を助けたそうです。
もちろん美空ひばりもスミさんの所に何度もお礼に来たそうです。
映画「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」 根岸屋から出てくる原田芳雄
藤田敏八監督の映画「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」(1970年公開、主役:渡 哲也)の中での1シーンです。実際の根岸屋の前で撮影してます。
白いスーツに濃いブルーのシャツ、そして赤いネクタイが時代を感じさせますね。
渡 哲也も原田芳雄も亡くなりましたが、僕は原田芳雄の大ファンでした。
原田芳雄が歌う「横浜ホンキートンクブルース」も最高ですよ!
映画「新宿アウトロー ぶっ飛ばせ」 根岸屋店内で立ち上がる原田芳雄
このシーンに出てくるような楽器演奏者の方が実際の根岸屋にもいました。
特にかんかん帽をかぶってストライプのジャケットを着たトランペット奏者の方が人気でした。
たまに店の中でチンドン屋さんが回っていたり、おかまのお姉さんが踊っていたり。
朝になってもそのまま仕事に行く人が多く、7時8時までいつも満員でした。
天井には提灯が並んでいて、割烹着を着た大勢の仲居さんが酔っ払いの荒くれ相手にお世辞を言ったり、叱りつけたりしながらお酌をしてました。
そしてここにはすべての人種・階層の人達がいると言っても過言ではないので、毎日必ずケンカが起こりました。
そうすると、片腕のない用心棒の日高さんが登場し、うまく収めるのです。
GI、船員、愚連隊同士の人数の多いケンカは、日高さんも諦めムードで静観してましたが。
すぐ傍の交番のお巡りさんと伊勢佐木警察署は24時間きっとたいへんだったと思います。
僕は20歳くらいの頃、福富町のナイトクラブやサパークラブでバンド演奏をしていました。
よく朝方ご飯を食べに行きましたが、泥酔したお客が多く、からまれたり乱闘に巻き込まれたりした思い出が何度かあります。
朝ご飯を食べるのが目的だったので、残念ながらいい思い出はありませんでした。
そんな伝説の根岸屋でしたが、1980年経営不振で閉店後、その年の11月20日に伊勢佐木町の大火事で焼失してしまいました。
東神奈川駅前 かなっくホール1階にある大衆酒場「根岸屋」
現在も東神奈川駅前で営業している大衆酒場「根岸屋」があります。
実はここのご主人 新井正二さんは、坂元スミさんの縁者で根岸屋開業時からお店を手伝っていた、新井正太・リヨご夫妻の息子さんなんです。
和食のみの家庭的な静かなお店です。
とっても安くて美味しいお魚料理が自慢のお店です。
一度訪れてみてはいかがでしょうか?
伝説の根岸屋のお話が聞けるかもしれませんよ!
東神奈川駅前 大衆酒場「根岸屋」ご主人 新井正二さん
黄金劇場
「黄金劇場」は京浜急行「黄金町駅」から大岡川沿いに歩いて4分ほどの中区末吉町3丁目にあったストリップ劇場です。
1970年頃から40年以上続いた横浜ストリップ劇場の殿堂とも言える存在でしたが、2012年に度重なる公然わいせつ罪などで経営者が逮捕されてから休業状態が続き、残念ながら、2013年6月27日に閉館となりました。
その昔、劇場内にはヒロポン用の注射器が上からぶら下がっていたという逸話もあります。(ヒロポンは錠剤よりも注射液の方が効き目が強いので注射が当たり前になっていったのです。)
除倦覚醒剤 ヒロポン錠
覚醒剤は、明治時代の日本人薬学者長井長義氏とルーマニア人化学者が共同で有機化合物アンフェタミンとメタンフェタミンの人工的な合成に成功して誕生しました。
ヒロポンはもともと古代ギリシャ語の「Philo-ponus」(労働を愛するという意味)が語源です。
ネーミングには「疲労がポンと吹き飛ぶ」という意味合いもあり、これを服用すると眠らなくてもガンガン仕事や勉強ができるという触れ込みで、戦前は深夜労働者、受験生などに広まりました。
戦時中は、軍部の国策として増産を重ね、死の恐怖を吹き飛ばすために、特攻隊をはじめ、多くの兵士に支給されました。
ヒロポン錠は「突撃錠」と呼ばれるようになったのです。
終戦後、ヒロポンは軍の備蓄から大量放出され、闇市などに出回りました。「チュウ(焼酎)一杯よりもポン(ヒロポン)の方が安い」という時代で、「ポン中」(覚せい剤依存症患者)は推定200万人にもなりました。
戦後「青線地帯」「大岡川スラム」と悪名を馳せた黄金町はヒロポンやヘロインなどの麻薬密売の温床でもありました。1962年7月6日には、警察の一斉取締りで供給源を断たれた200人余りの中毒者が禁断症状を起こして路上に飛び出し、大きな事故や事件を引き起こしました。
この黄金町事件は日本中の大ニュースになったのです。
そして翌年の1963年に公開された黒澤明監督の「天国と地獄」でも、山崎努演じる誘拐犯人竹内銀次郎がちょんの間でシャブ中の売春婦に純度の高いヘロインを注射してショック死させるシーンはまさに黄金町が舞台でした!
戦前から大岡川の船運を活用した問屋街として栄えた黄金町(初音町・黄金町・日ノ出町地域一帯の通称です)は戦後高架下にバラック小屋の飲食店が建ち並ぶようになり、その店から「ちょんの間」(風呂もシャワーもベッドもなく、2畳ほどの部屋に布団か座布団を敷いて本番行為をする風俗店。時間は20~30分。)が現れ、大阪の飛田新地、沖縄の真栄原社交街と並んで「日本3大ちょんの間」エリアとなりました。
2002年以降の最盛期には270店舗ほどになり、約1,000人の外国人売春婦がいたとされています。
黄金町のちょんの間で客引きをする外国人売春婦たち
そんな黄金町界隈も2005年1月11日から始まった「バイバイ作戦」(2009年の横浜開港150周年に向け、神奈川県警が売春防止法や入管難民法による取り締まりを徹底的に行い、摘発されていた風俗店を一掃したもの)で「ちょんの間」がなくなりました。
2006年、文化芸術振興拠点の運営団体に選定されたBankART1929が「BankART桜荘」をオープン。
各地から集まったアーティストと地域住民が芸術活動を行うことで、地域健全化運動の先駆けとなりました。
2007年頃からは、ちょんの間を改装した若者向けのバーやカフェが増え始め、2008年には高架下に「文化芸術スタジオ」が建設され、アートを生かした新しい街づくり実行委員会による「黄金町バザール2008」が開催されるようになり、毎年続いています。
今では「青線地帯」「大岡川スラム」「ちょんの間」「麻薬密売の温床」の面影は全くなくなりました。
そんな黄金町駅から大岡川を越え徒歩5分ほどの末吉町4丁目角に「喫茶TAKEYA」があります。
喫茶TAKEYA
元々はご両親が昭和20年からここで「竹屋」という旅館を営んでいましたが、お客さんは進駐軍の兵隊さんとお相手の女性がほとんどだったので、時代とともに衰退傾向となり、1983年片岡孝夫さんが33歳の時に改装して喫茶TAKEYAをスタートしました。
ここにいると時間の流れがゆっくり感じられ、とても落ち着きます。
マスターの片岡さんが作るナポリタンもたまごサンドも焼きサンドイッチも絶品です!
片岡さんは、よこはま物語その6で紹介した小山成光さんと1968年18歳の時に元町のディスコ「リバーサイド」で出会い、一緒にハマチャチャを生み出した伝説のダンサー、伊勢佐木町のカタヤンさんその人なのです!
店内にはCDのジュ-クボックスもあり、片岡さんお気に入りのソウルミュージックが流れています。
今でも気が向くと、音楽に合わせて軽快なステップを披露してくれます。
たまにハマチャチャのレッスンもしてくれますよ!
猫のモモちゃんとなっちゃん
喫茶TAKEYAのマスター片岡孝夫さん
片岡さん、ここにしかない時間の流れをいつまでも守っていってくださいね!
さて、黄金町周辺を流れる大岡川は工場排水の垂れ流しや生活排水、ゴミの投棄、ダルマ船の放置で臭気漂うドブ川でしたが、1992年春からはじまった「大岡川桜まつり」プロジェクトにより、信じられないほどきれいな川に生まれ変わりました。
春になったら、喫茶TAKEYAの後、是非大岡川沿いを散歩してみてください!
1960年代から1980年代にかけて横浜一のディープな繁華街として栄えたのが福富町です。
伊勢佐木町通りの裏にあり、福富町東通・仲通・西通の3本が伊勢佐木町通りと平行に走っています。
1983年の最盛期には西通を中心にトルコ風呂(現ソープランド)が24軒、仲通を中心にバー・クラブが38店、グランドキャバレーが9店ありました。
西通から東通に通じるメインストリートにはその頃、稲川会系林一家の事務所があり、福富町は林一家のシマ(縄張り)でした。
しかし神奈川県の暴力団排除特別強化地域に指定され、林一家の事務所もなくなり、今や福富町はほとんど韓国系やタイ・ベトナム系のお店になってしまいました。
米軍のかまぼこ兵舎
終戦後、この福富町エリアも焼野原になってしまい、そこに米軍のかまぼこ兵舎という半円筒形の組立て式兵舎がたくさん建てられ、当たり前のように、曙町、弥生町、末吉町、黄金町と同様、福富町にも米軍相手のもぐりの風俗店がどんどんできるようになりました。
そして1966年頃から福富町西通を中心にトルコ風呂が次々と開業しました。
その理由は、福富町がトルコ風呂の営業禁止除外区域に指定されたからです。
同時にバー・クラブ、グランドキャバレーも立ち並ぶようになり、横浜最大の繁華街になっていったのです。
余談ですが、ソープランドが何故最初トルコ風呂と命名されたかというと、1679年ロンドンに「ロイヤル・バーニー」という風呂屋(イスラム圏の公衆浴場ハンマーム風)がオープンしました。
ここの経営者はトルコ人で、「浴場とトルコ・コーヒー」という東洋文化が味わえる異空間を提供して話題になり、その後18世紀後半までに、30軒近くの「トルコ風浴場」がロンドンにできました。
ですがロイヤル・バーニーのような普通の浴場ではなかなか経営が難しく、ほとんどが売春宿になったのです。
その話が元となり、「トルコ風呂」と命名されたと言われています。
ところが1984年、日本に来ていたトルコ人留学生のヌスレット・サンジャクリさんが厚生省に名称変更を訴えました。
これがマスコミを動かす大きな運動になっていき、その年の12月19日「ソープランド」に改称されたのです。
そんなソープや韓国系、タイ・ベトナム系のお店が立ち並ぶメインストリートで、今も屹然と営業しているバーがあります。
福富町のバー クライスラー
西通からメインストリートを歩いてくると、スコットランドのキルトを着用したバグパイプ隊士と黄色い吊り看板が見えてきます。
1950年5月5日開業のバー クライスラーです。
まったく変わっていません!
古くて急な階段を上り、
重ためのドアを開けると、
昭和から時間が止まった世界が広がります。
天井の高さにビックリしますよ!
ボトル棚の中央に「FOUNDED1950」と彫ってある看板が見えます。
野毛の「山荘」よりも古いです。それもまったく変わらずに。
テーブル席横の棚には所狭しと様々の形をした世界中のオールドボトルが並んでいます。
ここにもジュークボックスがありました。
ここのチーズピザもアポロに負けないくらい美味しいですよ!
クライスラー50周年記念ウイスキー「多謝」。
約25年前にこの値段ですから、今はもっと高いでしょう。
カウンターに座ると、このブーツ型グラスで飲めます。ウイスキーだけですが。
クライスラーのオーナー安藤嘉章さんは2008年に亡くなられました。
「日本ハーレー・ダビッドソン協会」の名誉会長でもあった粋人でした。
曙町二丁目北交差点のファッションヘルスビル
曙町裏の通称「親不孝通り」にあるファッションヘルス「蛍」と「ハマヘル同好会」
鎌倉街道と呼ばれる国道16号線沿いの中区曙町は明治から昭和の初めまで、銘酒を売る看板を出して飲み屋を装い、密かに私娼(役所・警察に許可も得ず、もぐりで商売をしている娼婦)を抱えて売春を営む店が建ち並ぶ「銘酒屋街」として、永楽町・真金町の「永真遊郭街」(こちらは役所・警察公認の売春婦である公娼の街)と共に栄えました。
第二次大戦で焼野原になった後も、曙町のお店はカフェーやバーを装い、青線街(特殊飲食店の営業許可なしに、非合法で売春が行われていた地域)として栄えました。
因みに、1946年GHQにより日本の公娼制度は廃止されましたが、それ以降も特殊飲食店街として公認で売春が行われていた地域が赤線地帯で、警察が地図に赤線で囲んで表示していたそうです。
青線地帯は青線で囲んでいたので、赤線青線と呼ばれるようになりました。
1956年に発令された売春防止法により、1958年赤線は廃止されましたが、元々もぐりで商売をしていた曙町の風俗店はしぶとく生き残り、1993年あたりからいきなり日本最大級のファッションヘルス街になったのです!
1987年神戸のソープランドで働いていた女性が、日本で初めて性行為によるHIV感染でエイズを発症し、死亡したこともあり、ソープよりも本番行為以外の性的サービスを行うヘルスの方にお客が流れるようになりました。
何故1993年になって曙町にヘルスが林立し始めたかと言うと、中区では学校や入院施設のある病院が周囲200m以内にあると風俗店は出せないという条例があるのですが、曙町一丁目にあった山口病院が、暴力団幹部らのグループによる追突事故を装った保険金詐欺事件に協力していたので、1993年に営業停止になり、その後なくなってしまったのです。
もぐりの風俗関係店がほとんどだった曙町ですから、この時とばかりに、合法で出店できて資金もあまりかからないヘルスを挙って始めたわけです。
そんないかがわしい曙町で今年60周年を迎えたのが、パブレストラン「アポロ」です!
マスターの石原清司さんが26歳の時1964年10月1日に開業しました。
国際港横浜には多くの外国貨物船が入港し、船員たちの滞在期間も1ヶ月近くありました。
1950年代からギリシャの貨物船も増えてきて、曙町あたりはギリシャ人の船乗りがたくさん集まるようになり、ギリシャタウンになりました(中華街あたりはアメリカ人の街になっていたので)。
ギリシャ料理のお店やバーが30~40軒ほどでき、アポロの建物の1階には「スパルタ」というギリシャレストランが1953年にオープンしました。
そのお店で石原さんは19歳の時からウエイターとして4年ほど働き、一時別の仕事をしていましたが、オーナーのエリヤス・スカンゾフさんから、2階でお店をやらないかと誘われ、決断したそうです。
オープン当初はギリシャ人ばかりだったので、看板もギリシャ語だったのですが、70年代になるとギリシャの船は減ってきて段々ギリシャ人は来なくなりました。その代わり日本のお客さんが増えてきたので、看板を日本語に変えました。最初の看板は「スナックアポロ」で今も付いています。
因みに1階は現在ヘルスになっています。
マスターの石原さんにはきつい急な階段
アポロの店内
アポロのジュークボックス
前回の「山荘」と同じドーナツ盤レコードのジュークボックスです。こっちは100円で3曲です。
超お薦めのチーズピザ
超お薦めのナポリタン
アポロは日本ナポリタン学会認定店になりました!
太陽のようなカクテル「アポロ」
マスターの石原さんが心配なので、週何回か奥様とお嬢様も手伝いに来ています。
今も笑顔が素敵な石原清司さん 通称チャンさん
マスターの石原清司さんは御年86歳。
お店のマスターで現役バーテンダーは石原さんが横浜では最高齢だそうです。
スパルタでウエイターをしていた時、坊主頭に詰襟のボウイ服で蒋介石に似ていたので、ギリシャ人のお客さんがチャン(蒋介石の英語読みはチャン・カイ・セーなので)と命名してからずっとチャンさんと呼ばれています。
チャンさん、100歳までシェーカー振って美味しいカクテル飲ませてくださいね!
それから、ギリシャ料理店スパルタは現在も吉田町商店街の裏、ノラねこ通りに移転して、3代目の阿久津泰之さんが続けています。
日本で最初にできたギリシャ料理専門店の味も是非楽しんでみてください!
野毛にあったバー「世界のカクテル 山荘」です。
1955年にオープンしてから約59年間、野毛の顔として多くのファンに愛され続けてきました。
写真のお店は1970年の火事で全焼した後に建て直されたものです。
ですが、地主さんからの立ち退き要請で、残念ながら2014年1月20日に閉店してしまいました。
1955年オープン時の「山荘」とマスターの黄野長康さん
マスターの黄野長康さんは台湾のご出身で、戦後まもなく日本に来てから新宿の寿司屋さんや喫茶店で働いていました。
昭和30年代の登山ブームから「山荘」と名付け、山小屋風の建物にしたんですね。
でも、山のことはまったく知らない人でした。
お店のキャッチコピーは最初「しあわせを売る店」でしたが、建て直した後に「世界のカクテル」に変えたそうです。
マスターの黄野長康さんは閉店直前の2014年1月3日、91歳で亡くなられました。
山荘の店内
マスターのご長男 敏文さん(左側)とバーデンダーのジローさん
バーテンダーのジローさんは元会社員で山荘のお客さんでしたが、1970年に会社を退職し、職探しをしていた時、マスターから誘われバーテンダーになりました。
カクテルの作り方もここでゼロから学びました。本名は佐田力(つとむ)さんですが、覚えにくいということでマスターがジローさんと名付けたそうです。
再オープンした「世界のカクテル 山荘」
ですが、なんと2014年2月25日に山荘は再オープンしたのです!
山荘の大ファンの金子さんというお客さんが自分の所有している建物の2階でやらないかと、バーテンダーのジローさんに話を持ち掛け、多くのファンの方々の後押しもあり、ジローさんが店主としてオープンしました。
黄野さんの奥様も快くお店の名前やインテリアを譲ってくれ、居心地の良い昔の雰囲気を再現することができました。
外の看板と再オープンした山荘の店内
外看板もカウンターもイスも、後ろのカクテルメニューも、黄野さんが書いた文字看板も、酒棚も照明も階段の丸太もすべて前のお店から持ってきたものです。
今でも大活躍のジュークボックス
なんと言っても山荘のシンボルであったこのジュークボックスが健在なのには驚きです。
1970年から50年以上活躍している、とてもレアなドーナツ版(CDではなくレコードです!)のジュークボックスです。
100円で2曲、200円でなんと5曲もかけられるんです!
針を落とした時のジージーザーザーという音が堪らなくノスタルジックな気分にさせてくれます。
現役で活躍しているレコードのジュークボックスがあるお店は他に曙町の「アポロ」と、瑞穂ふ頭の「スターダスト」だけでしょう。
黄野さんが大好きだった洋画の主題曲も多く入ってますね。
前のお店のままのカクテルメニュー
今もカクテルはほとんど700円~800円で値段はほとんど変わってません。
チャージも一切なしです。
オリジナルの山荘カクテル
ジンベースでペパーミントの香りが爽やかです。
現店主のジローさん
ジローさんは穏やかで人当たりもよく、とてもまじめな方です。
来年80歳、まだまだ頑張ってください!。
終戦後の食糧難の時代、安くて栄養のあるおいしいものを沢山の人に気軽に食べてもらいたいという思いで、1946年(昭和21年)12月15日、石橋豊吉氏が、大岡川の都橋そば、野毛柳通り入口に開業したのが、「米国風洋食 センターグリル」です。
1872年(明治5年)新橋―横浜(現在の桜木町駅)間に、日本で最初の鉄道が開通したことによって、東京から海外に向かう人、新しい文化を求める人、貿易事業を始める人がこの地区に立ち寄るようになり、国際都市横浜の入口に位置した野毛は、日本人のための下町としてこの頃から栄え始めました。
しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって、野毛商店街もほぼすべてが倒壊・焼失となりました。
そして第二次大戦の横浜大空襲によって再び焼野原になったのです。
関内・伊勢佐木町地区は進駐軍に接収され、米軍のかまぼこ型の兵舎が立ち並び、米軍用の飛行場まで造られましたが、野毛地区だけは接収を免れました。
伊勢佐木町に造られた米軍飛行場
終戦直後、野毛はヤミで放出された食料品などを日本人相手に売る露天商が集まる「闇市」になったのです。
戦前から横浜には多くの中国や朝鮮の人達が居住していたので、「戦勝国扱い」になった彼らの名義で食料品、たばこ、アルコールを進駐軍から仕入れて横流しをしていた人たちもたくさんいました。
終戦直後、横浜で一番多くの人が集まり、賑わっていたのが野毛でした。
終戦直後の闇市
国の配給制度はほとんど崩壊していたので、行政も闇市の取引や不法占拠を黙認していました。どの闇市も、そこを取り仕切っていたのは大物ヤクザの組でした。
石橋豊吉氏は、まだほとんどの庶民がお米すらも満足に食べられない時代に、庶民の憧れであったアメリカの味を安く提供したいという強い思いで「センターグリル」を始めました。
ところで、ホテルニューグランドの接収当時、米軍兵士が、茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップだけで食べていたのを見ていたニューグランドの2代目総料理長 入江茂忠氏が考案したものが、元祖スパゲッティナポリタンとされています。
戦前にホテルニューグランドの初代総料理長のサリー・ワイル氏が買い取った、すぐ裏の「センターホテル」で石橋豊吉氏は料理人として働いていました。
ですので、姉妹ホテルの入江氏とも交流があり、ナポリタンのレシピを教えてもらうことができたのです。
ニューグランドの生のトマトやトマトペーストを使ったものではなく、トマトケチャップを使った庶民的で安価なものにアレンジするようアドバイスされ、センターホテルの名物メニューとなりました。
そのホテルの名前から「センターグリル」と名付けたそうです。
ケチャップ味の元祖ナポリタンとして今も多くの人達に愛され続けています。
センターグリルのスパゲッティナポリタン
2.2ミリの「ボルカノ」極太麺に具材はハム・玉ネギ・ピーマン、そして少し甘めのケチャップ味。創業当時から変わらぬ味です。
他にもオムライス、チキンライス、ハヤシライス、カレーライス、ハンバーグなど庶民的な洋食の味が楽しめます。
2018年に生まれ変わったセンターグリル
広くなった2階店内
2代目石橋秀樹氏と3代目石橋正樹氏
現在は3代目の石橋正樹氏が店主として切り盛りしていますが、2代目の石橋秀樹ご夫妻も1階のレジ付近にいつもいらっしゃいます。
横浜に来たら是非昭和の香り漂う野毛で、素朴な町の洋食屋さんの味を堪能してください。
センターグリルから柳通りを入って2つめの角にある「旧バラ荘」というバーです。
1949年にバラ荘としてオープンし、今も営業しています。
たまにライブ演奏も行われます。
センターグリルの後は是非ここに寄ってタイムスリップした感覚を味わってください。
昼間から営業していますよ!
それから残念なお知らせですが、「よこはま物語その16」で紹介した野毛の「papa john」が8月に閉店してしまいました。
今は沖縄居酒屋さんになっています・・・。
その生涯をかけて、ジャズの普及と若いジャズミュージシャンの育成にすべてを注いだ吉田衛(まもる)さんの遺志を継いで、妹の吉田孝子さんと有志一同によって、2012年3月11日、野毛町2丁目94番地にできた「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」です。
残念ながら建物の耐震性の問題で、2022年4月10日をもって閉店してしまいました。
昔のちぐさで使っていた看板
昔のちぐさを再現した店内
昔から使っていた椅子
昔から使っていたレコードをかけるターンテーブル
決してDJをやるためではありません。
一枚のレコードが終わるとすぐに次のレコードの音楽を流すためです。
一日中この手作業を吉田さんはコーヒーを淹れながら一人でやっていたんですね!
昔から使っていたアンプ。そして数千枚のLPレコード
ちぐさが戦後再開した時は、もちろんSPレコードやV-ディスク(1943年10月から1945年5月までに米軍で兵士慰問用にリリースしたレコード)しかありませんでした。
昔のお店の看板
2階には柴田浩一さんが造ったこの絵看板のレプリカが飾られていました。
日野皓正さんと吉田衛さんの写真
1949年当時の吉田衛さん(左側)の写真
2階の小部屋
吉田さんはビル・エヴァンスとスタン・ゲッツが特に大好きでした。
1947年~2007年までの「ちぐさ」
吉田衛さんは1913年横浜に生まれ、1933年(昭和8年)20歳の時、野毛町1丁目23番地にジャズ喫茶店「ちぐさ」を開きました。
しかし太平洋戦争が始まると、ジャズは敵性音楽として禁止され、吉田さんも徴兵されて、お店は閉めざるをえなくなりました。
吉田さんは1946年に復員しますが、横浜大空襲でお店も6,000枚のレコードもすべて焼失してしまい、途方に暮れていると、かつてのお店の常連さんやジャズミュージシャン達が隠し持っていたSPレコード千数百枚を譲ってくれ、それに勇気づけられた吉田さんも横須賀の米軍基地や本牧でV-ディスク(前述参照)を必死に蒐集して、1947年お店を再開します。
横須賀基地のEMクラブや横浜の米軍クラブに出演していたピアニストの秋吉敏子、サックスの渡辺貞夫、トランペットの日野皓正は休みの日は一日中ちぐさで貪るようにレコードを聴いて必死に勉強したそうです。
また、売れない時代に米軍クラブで演奏していたクレージーキャッツのメンバーもここでジャズをたくさん吸収しました。
吉田さんは心から彼らを応援していたので、一日中いてもコーヒー1杯のお金しかもらわなかったそうです。
吉田さんは1994年81歳で亡くなられました。
その後お店は、妹の孝子さんと、野毛で「村田屋」という老舗和食屋さんを営業されている藤澤智晴さんを中心とした有志一同で守ってきましたが、地域の開発計画に伴い閉店を余儀なくされ、2007年幕を閉じました。
昔のお店の前でポーズをとる日野皓正さん
昔のお店の前、野毛仲通りを走る人力車
生前、吉田さんがレコードを探している様子
真剣にジャズを聴く神聖な場のようなちぐさの雰囲気が好きでした。
でも吉田さんには話しかけることもできませんでした。
とても残念です。
冒頭に記述した「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」では「ジャズの歴史と伝統を大切にし、それを未来につないでいく」ことを使命に、2013年吉田さん生誕100年を記念して、「CHIGUSA Records」というレーベルを設立。
同時に優秀な新人を発掘・表彰する「ちぐさ賞」を制定。
若きジャズミュージシャンの登竜門と称されるようになり、その優勝者はレコードデビューが約束され、これまで8人のアーティストがレコードデビューしました。
「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」の跡地に生まれ変わる予定の「ジャズミュージアム・ちぐさ」
前述の藤澤智晴さんを中心とした有志の方々がこのプロジェクトを進めています。
博物館的機能を備えた、ジャズ喫茶のイメージを超えた外装と内部構造を持つ新たなライブハウス兼ミュージアムに生まれ変わるらしいのですが、吉田さんの貫いてきた「ジャズ文化の推進、地域の賑わいの創出、そしてこれからのジャズを支える若い世代への支援」という意志は果たして守られていくのか心配です。
少々道が逸れてしまっている感じがするのですが・・・。
「ジャズミュージアム・ちぐさ」はちぐさ開業90年の2023年3月11日竣工予定でしたが、資金難のため、現在はいつ開業されるか未定です。
吉田さんが天国から「そんな大それたことやめてくれよ」と言っているかも。
お客様各位
いつも弊社のレンタルトランシーバーをご利用いただき、誠にありがとうございます。
度重なる宅配便業者の値上げのため、2024年10月1日お申し込み分より、下記の通り弊社の宅配便費用を改訂させていただきます。
何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
前回のよこはま物語 その16「papa john」とはまったく関係がないですが、john繋がりの、伊勢佐木町にあったホットドッグスタンド兼ロックバー「JohnJohn」です。
1971年にたった1.5坪のホットドッグスタンドとして開業し、1984年には裏の閉店した洋食器屋さんのスペースも借りて2階フロアもあるカフェバーになりました。
しかし、2023年12月10日、多くのファンに惜しまれながら閉店してしまいました。
オーナーの安藤光一さん
オーナーの安藤光一さんは1971年23歳の時にこのお店をオープンしました。
ジョン・レノンが大好きで、雑誌の「アンアン」「ノンノ」からヒントを得て、「JohnJohn」にしたそうです。
安藤さんは伊勢佐木町の米軍兵舎・居住地エリアのメインゲート付近で生まれ育ちました。
幼い頃からアメリカ人の子供と遊んでいたので、アメリカ・イギリスのポップス・ロック、バイク・アメ車、サーフィン・スケボー・スキーが大好きな青年になったのも納得です。
若い頃の安藤光一さん
安藤さんは24歳の頃、お店をご両親に任せて日本一周の旅に出かけました。
2年くらい帰って来なかったそうです。
でも、ご両親はパパジョン、ママジョンの愛称でお客様に親しまれ、お店は大繁盛だったそうです。
「よこはま物語 その3」で紹介させていただいた本牧IGのマスター八木さんはこの頃、JohnJohnでバイトしていたのでパパジョンにホットドッグの仕入れから作り方まで教えてもらったそうです。
本牧IGの四角いピザとホットドッグ
今でも本牧IGに行けばJohnJohnと同じソーセージとドッグバンズのホットドッグが食べられますよ!
JohnJohnのホットドッグ
僕が20代の頃は普通のホットドッグが確か200円でした。
福富町のお店に演奏に行く前、時間がない時よくお世話になりました。
3年ほどの前の写真ですが、値段はあまり変わっていませんね。
安藤さんはビートルズのジョージ・ハリスンにそっくりな人物として、雑誌にも度々紹介されました。
JohnJohnの1階店内、右端の人が安藤さんです。
1階では不定期ですがライブもやっていました。
2階店内
店内の壁に飾られていた貴重な写真やポスター
デヴィット・ボウイ、ジョン・レノン、ジャニス・ジョプリン、僕に音楽の素晴らしさと生き方を教えてくれた恩師です!
安藤さんは2022年3月、73歳で亡くなられ、お父様のパパジョンは2023年103歳で亡くなられました。
そして2023年12月10日を最後にお店もなくなりました。
本当にありがとうございました。