偉大なる音楽家ジョン・レノン No.12
1966年、ジョン・レノンの心の変化が如実に現れた年だと思います。
まず、有名なキリスト教発言。
1966年3月4日 ロンドン イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴのインタビューに答えたものですが、自分たちビートルズも含め、権力や冨に対するどうしようもない苛立ちと怒りを抱えてたジョンの心の表れで、決してイエスやキリスト教自体を否定する気持ちはなかったと思います。
ただ、イギリスでは何の問題にもならなかったこの発言が7月にアメリカのティーン向け雑誌「デートブック」に掲載されると、バイブル・ベルトの保守的宗教団体から火が付いたアンチ・ビートルズ活動が世界中に広まりました。
度重なる脅迫と8月の最後のアメリカツアーのため、ジョンは釈明記者会見を開くことを余儀なくされました。
そしてこの年、画期的なアルバム「リボルバー」が8月5日にリリースされます。
このアルバムはもともと「アブダカダブラ」(イメージはよくわかりますけどね。)と命名される予定でしたが、別のアルバムにこの名前があったため、ボツになりました。
当時、アメリカによるベトナムへの攻撃がますます激しくなり、アメリカではマリファナやLSDが若者に広がりドラッグ文化の勃興期にありました。絵画、文学、音楽などあらゆる知的表現の分野で「幻覚」が大きなテーマとなり、サイケデリックな表現が流行し始めた頃です。
まさにこのアルバムはその後の音楽的発想に革命を起こしたと言えるでしょう。
今思えば「リボルバー」というタイトルでよかったと思います。
このアルバムは1966年4月6日から6月21日の間にいつものアビイ・ロード・スタジオで録音されました。
いままでのアルバムとは、ソングライテイングもスタジオ・レコーデイングテクニックもまったく異なる次元のものを感じます。それまでのアイドル性を排除し、世間を気にせずにやりたいことをやるんだという強い姿勢が感じられるからです。
それは、タンブーラやシタールといった東洋楽器をより多く使用したり、テープ・ループや逆回転の演奏という試みを発見したり、ブラス・バンドや潜水艦の効果音を取り入れたり、さらには個人的な恋愛ではない、普遍的・抽象的な歌詞表現が多くなるなど、音楽的にも人間的にもそれぞれがものすごく成長を競ってる姿勢に顕れています。
このアルバムの中で、ジョンの特筆すべき点は、「アイム・オンリー・スリーピング」や「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などで駆使した逆回転の演奏やテープ・ループのテクニックです。(これは、6月10日にリリースされたシングル盤「ペーパーバック・ライター」のB面「レイン」にも使ってますが・・・)
また、「シー・セッド・シー・セッド」、「アンド・ユア・バード・キャン・シング」も含め、名声を得、物欲を満たしても心は満たされない葛藤と前年から傾倒し始めた東洋の輪廻思想が色濃く顕れており、今後のジョンの世界観・生き方を明確に物語っていることです。
圧巻はやはりエンデイングの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」でしょう。
この曲はジョンが持っていた「チベットの死者の書」からヒントを得て作ったものです。
ダライ・ラマが山頂からうたってる感じにしたかったようです。ハモンドオルガン用のレズリースピーカーを使ってドップラー効果を出しました。また、お経のようにしたかったのでしょう。歌詞もそうですが、構成を全編Cコードだけで展開してます。
普通では考えられない展開を想いつくジョンの発想力にまたまた脱帽です。
そして6月、7月の日本公演でジョンと日本の思想・文化との関係が深まり、さらにこの年の11月、運命の出会いが生れます。ロンドン インディカ・ギャラリーで個展の準備をしていたオノ・ヨーコとの出会いです。
ジョンは美術学校時代、東洋文化専攻の友人から日本や東洋文化のことを聞いて、「禅」や「空」の概念に興味を持ってたそうです。ヨーコのアートはそれを反映したもので、ジョンの心を透明な水で潤すほど深い感銘を受けました。
次のアルバム「サージェント・ペパー」の録音スタジオにジョンがヨーコを連れてきた時には、メンバーはかなり驚いたはずです。
ただ、個人的な憶測ですが、この時期ヨーコが現れなかったら、ジョンのドラッグ漬けの生活はまだ続いてたかもしれません。
余談ですが、「リボルバー」のアルバムジャケットをデザインしたクラウス・フォアマンはハンブルグ時代からの友人です。
1961年スチュアート・サトクリフが脱退した後、スチュからベースを教えてもらったクラウスがメンバーに入らせてほしいと申し入れたのをジョンが断った経緯がありますが、この後クラウスはジョンのソロアルバムをはじめ、その他のメンバーのアルバムにもベーシストとして参加してます。
ハンブルク時代に培われた友情の絆の深さが伝わってきますね。