偉大なる音楽家ジョン・レノン No.4

  • May 22, 2012
  • Pankie Koba

ビートルズがビートルズになったハンブルグ時代について話します。

実はビートルズというグループ名で活動を開始したのはハンブルグでのことでした。

57年にジョンがクオリーメンを結成し、ポール加入後、ジョージが58年に加入。学生スキッフルバンドで活動してましたが、60年1月にジョンの友人で画家志望であったスチュアート・サトクリフをベーシストに迎え、臨時ドラマーを加えて数々のオーディションに挑戦し、5月にはバックバンドとしてスコットランド巡業を経験。そのころのグループ名は、シルバー・ビートルズでした。

その後舞い込んできた8月からのハンブルグでの仕事を手にするため、ドラマーにピート・ベストを迎え、世界一のバンドを夢見て旅立ちました。この時、グループ名は「ビートルズ」となったのです。

でも、彼らに用意されていたのは、劣悪な環境としか言いようのない場所でした。

ハンブルグのザンクト・パウリ地区にあるレーバーバーンの北側にある歓楽街でした。最初に出演した「インドラ・クラブ」では1日の休みもなく、平日正味4時間半、土日は6時間も演奏する契約になってました。そして、店のお客も、酔った荒くれ船員や、地元のマフィア、風俗嬢・・・普段の生活でも、酒、ドラッグ、暴力が日常茶飯事の街。

ビートルズはお客に罵声を浴びせられ、窮地に立たされました。

でも、ジョンは発奮します。恥も外聞もかなぐり捨てて、ジーン・ヴィンセントのように飛び跳ねたり、床を転げ回ったり、足が悪いふりをしたりして派手なパフォーマンスを身につけていきました。

お客のどんなリクエストにも応えられるように、次々と新しい曲に挑戦し、ハンブルグ時代に何百曲というレパートリーを保有するようになりました。

また、お店の外で客引きをしたり、レパートリーが底をつけば、どの曲も20分ほどに引き延ばし20回もソロを回すなど、まさに生き残りをかけた壮絶な戦いをしながら、プロとしての腕を磨いていきました。

ある日、カイザーケラーというお店に観客で来ていたイグジス(実存主義の信奉者)の美術系学生、アストリット・キルヒヘアとクラウス・フォアマンは彼らと急速に親交を深めていきました。(のちにスチュはアストリットと恋に落ち一緒に暮らし始め、ビートルズを脱退します。)この二人の影響で、揃いのライラック色のジャケットを脱ぎ捨て、黒い革ジャンとパンツを身につけました。

こうして短期間に売り込みの手腕、パフォーマンス、ルックス、演奏技術を飛躍的に向上させることができました。

「演奏技術を得るために、深夜の十字路で悪魔に魂を売り渡した」と言われる所以です。

この修行時代、下積み時代がなければ、ビートルズはビートルズになれなかったでしょう。

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